鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―194―「青春譜」〔図6〕では、象徴主義的な傾向が見られ、何度も描き直しを行うほど、夢たが、新しいムーブマンには、一切理解のある方で、若い気2が、ついぞ否定された記憶がない」(注28)と言うにように、夢二という人物がまた、アヴァンギャルドの気運を気負いなく受け入れる稀有な存在であったということができる。夢二の中にある前衛的な精神は、作品としてその画面上に顕在化しなかったのは、夢二が日本的抒情にも同時に惹かれており、その両者を同一画面上に表現することを常に求めていたからだと思われる。夢二が「新しいムーブマン」に理解を示したというのは、夢二の中の一方の志向がそれを求めていたからに他ならない。5.夢二の中の前衛最後に、竹久夢二自身が求めていた前衛の所在を明らかにしたい。夢二は「机辺断章」の中で、バレエ・リュスの舞台や衣装を手がけたバクストを「人間の四肢や肉体をそのまゝぶつけた」(注29)と評価し、スクラップブックにもバクストの図版を貼りつけるなど(注30)、ロシア・アヴァンギャルドへ関心を持っていた。ただし、ロシア・アヴァンギャルドについては、大正期には、留学生が持ち帰るバレエ・リュスの話題で溢れかえり、『婦人画報』にまでフォーキンらの記事が掲載されるほどであり(注31)、夢二に限ったことではない。しかし、普門暁がロシア未来派展を開催した際、夢二は会期中何度も会場を訪れ、最後には小品を欲しいと頼んだ事実は、夢二の関心の大きさを示している(注32)。夢二作品の中には実験的な手法を試みているものがいくつもある。代表作とされる二自身気にかけていた作品であった。また「ひとつ眼」〔図8〕といった奇抜なモチーフを生涯にわたり描き続けたことは、夢二の前衛的な側面を示す事実だと言える(注33)。しかし、「青春譜」についてはプロシェの図版が原案となっており(注34)〔図7〕、「ひとつ眼」には恩地孝四郎の影響が感じられる。夢二が新しい表現を模索する過程で、自分に憧れていた恩地の影響を受け、洋書図版の中に常に刺激を求めていたということは、浮世絵的な情緒を完全には否定できない夢二の限界がそこにあったと思われる。同時代においては大きな衝撃を与えた夢二の絵も、現代においては「大正ロマン」の匂いが充満し、時代背景を理解しなければその斬新さは理解しがたい。影響関係を抜きにし、夢二の前衛的な精神が結実したものとして、人形制作を挙げたい〔図9〕。自己の内面の感情を静かににじませる夢二の人形は決して愛玩する人形ではなく、完全な芸術作品としての存在感を感じさせる。平成15年(2003)東京国立近代美術館他

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