―11―たのかという疑問が浮かび上がってくる。いずれにしても中国室の開設と岡倉との影響関係に関してはいまだ明確ではない。本課題の研究のため報告者はガードナー美術館の協力を得て、鹿島美術財団の助成の下、中国室に関する未発表資料の現地調査を行った。本論ではこの調査の成果をもとに、中国室の開設から消滅までの経緯を整理し、収蔵された東洋美術品や岡倉ゆかりの品の諸元を提示、中国室研究の端緒とする。さらに中国室という空間を岡倉が『茶の本』(1906)で描いた「茶室」と比較し、ガードナー夫人にとっての中国室の意味について考察を試みる。1.中国室の開設から消滅までガードナー夫人は自身の東洋美術コレクションを段階的に築き上げた(注4)。その基礎となるのは、1883年から翌年にかけて夫と日本や中国などアジア各地を旅行したとき収集した東洋の文物である。新世紀から5年間は、ボストンの山中商会や松木文恭(1867−1940)からの美術品購入が続く。1910年以降はバーナード・ベレンソン(1865−1959)などの助力を得て、より優れた美術品を購入する。こうして収集した品々を陳列したのがフェンウェイ・コートの旧中国室であった。1914年から15年にかけて行われた大規模な改装で、フェンウェイ・コートは様変わりする。旧中国室は初期イタリア美術室へと変わり、音楽室はいくつかの展示室へ分割された。このとき音楽室の舞台だった1階部分と地階だった空間に中国室が新設された。旧中国室の東洋美術品は中国室、 初期イタリア美術室、■ほかの展示室に移設された。東洋趣味のヴェネツィアの椅子、日本製の鳩、中国製の青銅の熊、唐代の詩人李白の像などが初期イタリア美術室(旧中国室)にそのまま置かれ、他のいくつかの美術品はショート・ギャラリー(1914年開設)など別の展示室に移されたが、コレクションの多くは新しい中国室へ収納された。ガードナー夫人の死後、美術館初代館長となったモリス・カーター(1876−1965)により、1934年中国室の屏風3点がエレベーター前の通路に移され、元々飾られていた屏風4点と入れ替えられた。これ以降、中国室はガードナー夫人の生前とは異なる様相を呈していく。中国室は開設以来非公開だったが、1950年代には警備人の立ち会いのもと公開されるようになった。だが1961年には再び非公開となり、モザイク敷石の修理室として使われた。修理の際、室内の美術品は一部倉庫に収納され、修理完了後もとの場所に戻されたが、室内環境の悪化と修理に伴う大量の埃発生のため、1962年に中国室および美術品の大規模な補修が行われる。1970年館長のローリン・ハドリー(?−1992)は、館内に事務所と保存室のスペースを作るため中国室を含む建物南東部の改築を理事会に提案する(注5)。ハドリーは
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