―201―年代の最も早い絵画作例は、甘粛省敦煌莫高窟を中心とした石窟壁画及び出土絵画に五代以降連綿と認められる。これらから、水月観音図の特徴には従来からの指摘(注3)に加えて、他の尊像にはあまり見られない広々とした空間表現と、観音と同じ場面内に描かれた人物群の表現から“補陀落山の麓で祈願する人々の前に観音が立ち現れた情景”を描いていると考えられる(注4)。このように画面内に描かれた人物群の表現は水月観音図の意義がどのように変化したかを探る指標の一つとなると考えられる。そのため本稿においても水月観音の姿勢と人物群の表現に重点をおいた視点をとる。また、敦煌出土文書の中には莫高窟第220窟に供養者像の残るI奉達が書した『佛節水月光観音菩薩経』(後周958年)が残されており(注5)、その内容は唐代の伽梵達摩訳『千手千眼観世音菩薩廣大圓満無礙大悲心陀羅尼経』の一部からとっていることがすでに指摘されている(注6)。さらに他の文書にもI奉達が亡妻馬氏の追福の為にこれを抄写したことが記されている(注7)。これらによって、五代末の敦煌において水月観音に対して作られた経典が追福の行事に用いられていたこと、また水月観音が密教の性格を帯びて捉えられていたことがうかがえる。西夏建国以前の宋景徳4年(1007)にすでに李徳明が宋に対して五台山の建造を申請している(注8)ことや西夏が宋に幾度も大蔵経を請うている(注9)ことからも、西夏の支配者層が率先して仏教を信奉していたことは明らかである。さらに、西夏晩期の1159年には李仁考(仁宗)はチベットより僧侶を招くなどしており、西蔵密教に対する信仰も篤かったことがうかがえる。西夏時代の石窟壁画の構成は顕密、漢密と蔵密の混在する構成であったことは既に知られている通りである。後述するように、五個廟石窟第1窟でも顕密の混合した構成をとっており、このような西夏仏教の状況の中で水月観音図が大画面で盛んに描かれた背景には、水月観音図が敦煌において五代から密教の性格も備えていたことが挙げられるであろう。3.題記、文献からの考察水月観音図の描かれた窟で題記を有するものは少ないが、楡林窟第29窟には多数の供養者像と西夏文字の題記が残されており、ここからは施主名や、僧侶を厚遇していた西夏仏教の状況を見て取ることができる。また、楡林窟第29窟に関係する題記として楡林窟第19窟(五代開鑿)甬道北壁に刻まれた漢字による題記を取り上げる。「乾祐廿四年□□□日画師甘州住戸高崇徳小名那征到此画秘密堂記之」(注10)とあり、乾祐廿四年は西夏仁宗の最後の年であり、
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