―202―1193年にあたる。これによると甘州(現在の安西)に住む画師の高崇徳(那征)が楡林窟第19窟を訪れた際に秘密堂を描いた自分がこれを記す、と書き残している。「那征」は楡林窟第29窟の題記中にも見られるように、西夏人の名前である。さらに、「秘密堂」は密教図像を描いた窟を指し、楡林窟第29窟と考えられている。これは高崇徳が29窟を描いた年ではないものの、画師名と大まかな年代を知ることができ、水月観音図の流れにも指標を与えてくれる点で重要である。4.西夏時代の敦煌周辺地域における水月観音図西夏時代に敦煌周辺の石窟に描かれた水月観音図は、現在判明している作例が17図ある。敦煌莫高窟第164窟(2図)〔図1、2〕、237窟(2図)〔図3、4〕、安西楡林窟第2窟(2図)〔図5、6〕、29窟(2図)〔図12〕、38窟(2図)、安西東千佛洞第2窟(2図)〔図10、11〕、5窟(1図)〔図15〕、粛北五個廟石窟第1窟(2図)〔図7、8、9〕、4窟(2図)〔図13、14〕である。このうち、楡林窟第38窟については未解放窟で調査を行えなかったため、実見調査を行ったそれ以外の窟について考察を進めたい。石窟内での位置については表1に記す通りである。まず、敦煌莫高窟第237窟は五代及び宋代の多くと同様に前室西壁門の両脇上部に描かれる。第164窟に描かれた水月観音図は主室の最も奥の壁面に描かれている。佛龕の両脇上部という石窟内でも重要な位置に配されているものの、画面が小さい為に観音の周囲に描かれていたモチーフはやや簡略化されている。観音周囲の空間は狭められ、莫高窟、楡林窟の壁画で五代から認められた観音の対岸に描き込まれた僧侶と俗人が237窟では人数が減るものの小さい人物が認められるが、164窟では全く省略されているのである。しかし237窟では、観音に向かって宝珠のようなものを差し出している人物の脇に小さな龍のような生き物が認められ、さらにその背後には燃えさかる火炎と見られる描写があることが注目される。237窟は西夏支配期でも早期に当たる(注11)が、その後、晩期に当たる楡林窟の水月観音図には明らかに火炎を伴った人物が描きこまれており、これは龍王と見られることから、龍王が西夏の早期にはすでに取り入れられていたと見ることができるからである。さらに述べるならば、すでに五代の莫高窟第331窟や宋時代の楡林窟第20窟には、水月観音図と同じ石窟内に「龍王礼佛」図が描かれており、水月観音図に龍王のイメージが取り入れられることとの関連が認められる。水月観音の姿態は237窟、164窟共に、宋代に認められた多様化の傾向を明瞭に示している。莫高窟第237窟の2図は片足を岩座上で屈曲しもう片方を立て膝にする輪王
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