鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―203―坐に近い座法をとる。片腕は膝の上、もう片方の手は脇で触地する。これは宋代より出現する図像である。それに対してもう1図の観音は片足を垂下し、片膝を垂下した足をまたぐように屈曲して両手で抱えている。膝を抱える姿勢は敦煌出土絵画の水月観音図(五代、紙本著色、ギメ美術館蔵)において認められるものの、五代、宋代の壁画では認められない。西夏支配期に入ると、本図の他、164窟の1図及び、後述する五個廟石窟第1窟の1図にも同じ姿勢が見られる。164窟のもう1図は片足を岩座上で屈曲し、もう片方の足をその上から垂下する姿勢であり、これは五代から続く最も典型的な図様といえる。しかし岩座に草を敷いて坐す点や、楊柳を挿した水瓶を観音と水流を挟んだ対岸に置く点はそれまでには見られなかった要素である。五個廟石窟は莫高窟の南に位置し、党河を見下ろす崖面に開かれている。第1窟は北周の開鑿で西夏支配期に重修を受けている。窟は南方に入り口が開かれ、水月観音図は室内の東西壁南側に描かれている。その他、窟内には弥勒浄土変や普賢変、文殊変、涅槃図、十一面千手千眼観音、八臂観音、曼荼羅など顕密ともに描かれ、西夏時代晩期に重修されたと考えられる。本窟でも水月観音が対で描かれる宋代から継承される形式をとるが、観音の体の向きは室内の奥へと向けられるのではなく、共に同じ向きへと体を傾ける構図に変化している(面部は両図共に欠失しており、視線の方向は判断できない)。宋代から進んできた姿勢やモチーフの多様性がさらに進んだ現れと受け取れるであろう。新たなモチーフとして、岸上に白馬2頭(そのうちの1頭あるいは牛)、各図とも画面上部の雲上に楼閣と宝塔〔図9〕が不明瞭ではあるが認められ、それぞれ補陀落山を示していると考えられる。このような描写は、楡林窟第3窟の文殊変と普賢変(ともに西夏時代)と同様である。水月観音の姿勢は西夏早期の壁画に認められた膝を抱える姿勢と、岩座上で両足をゆるやかに伸ばし、足先を付ける姿勢である。後者は西夏時代から認められる姿勢で、楡林窟第2窟及び五個廟第1窟の1図、さらに楡林窟第29窟の1図にそれぞれ認められる。また、本窟の図中には雲に乗った礼拝者が描かれ、一方は頭光を伴う菩薩形一体、もう一方は壁面の損傷が激しく不明瞭ながらも複数の人物が認められる。これらは火炎を伴っていない。五個廟第1窟の水月観音図は大円光や険しい岩、岩座、竹、水などの基本的な水月観音図の要素を踏まえながら、より具体的に補陀落山のイメージを表現するため、近景と遠景をだぶらせてあらわしているように見られる。そのために、水月観音の主な構成モチーフは前時代のそれを継承しつつも五代や宋時代に強調されていた観音を拝

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