鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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■松本栄一『敦煌畫の研究』同朋社1937年■注論文参照。ただし、この論文中で画中の観音の方向に腕を大きく伸ばしている人物のしぐさについて、もう1人の人物に観音を指し示す姿、としたが、その後、2本の指を立てている点や莫高窟第103窟南壁の仏塔を拝する場面において同じしぐさをする人物が認められることから、挙手し、観音を讃えるしぐさをしていると解釈を改めた(2005年美術史学会西支部例会での発表において)。■天津藝術博物館所蔵(津4532号)、『天津市藝術博物館所蔵敦煌文献』上海古籍出版社1996年■王恵民「敦煌写本《水月観音経》研究」『敦煌研究』1992年第3期■(P. 2055:ペリオ蒐集文書)『法蔵敦煌西域文献』3上海古籍出版社1994年■『西夏紀』巻4、11、12、22『宋史』夏伝によると、西夏は計6回宋に対して大蔵経を求めている。年号は史金波氏、白濱氏「莫高窟、楡林窟西夏資料概述」『敦煌学輯刊』蘭州大学敦煌学研究組1980年を始め両氏の各論文中や張宝璽氏の「東千佛洞西夏石窟芸術」『文物』文物出版社1992年第2期では「乾祐廿四年(1193)」とされているが、『安西楡林窟』や『敦煌学大辞典』上海辞書出版社1998年では「乾祐十四年(1184)」とされており齟齬がある。筆者自身は残念ながら現地で確認することができなかった。前者では一貫しているものの、後者では文中でも混同して用いられていたため、「乾祐廿四年」として取り上げた。劉玉権「敦煌莫高窟、安西楡林窟西夏洞窟分期」『敦煌研究文集』甘粛人民出版社1982年『中国美術全集』17上海人民美術出版社 1987年9月によると、五個廟石窟第4窟には前室―207―巻第三「勝光寺…塔東南院、周|畫水月観自在菩薩掩障、菩薩圓光及竹並是劉整成色」巻第十「周|…妙創水月之躯」山本陽子「水月観音図の成立に関する一考察」『美術史』第125号美術史学会1989年ここでは敦煌莫高窟の西夏時代の壁画を3期に、安西楡林窟のそれを3期に分け、莫高窟の第1、2期が楡林窟の第1期に対応し、莫高窟の第3期は楡林窟の第2期に対応するとし、楡林窟の第3期は元代窟に最も近い様相を呈するがそれよりは早い時期に当てられる、とされている。しかし、年紀の少ないこともあり、年代の特定まではされていない。が設けられていた形式をとっているとのことである。

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