鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―215―〔図4、7〕との関わりから特筆されることを以下に記す。(注13)を見てみたい。柳陰呼舟図〔図5〕にも見られた大きな墨の点が印象的な、指墨による作品で、『顧氏画譜』巻2−14図、趙令穣画〔図7〕(注14)から図様が借用されたことが指摘されている。前景を左右逆転して用い、『顧氏画譜』の該当図、左下前景に描かれる手を繋ぐ高士と童子が、大雅の作品中においても寄り添い手を繋ぐ様で、ややクローズアップされて右前景に描かれている(注15)。画面上方には、大雅と親交のあった黄檗僧、終南浄寿(1711〜65)の七言絶句の賛「断橋斜日已沈紅、両岸垂楊一水通、忽有行人来喚渡、小舟揺曳碧湾中」(注16)がある。これは先に見た『古今画譜』第22図〔図4〕の賛「春水断橋人喚渡、柳陰Ü出小舟来」と共通する言葉(断橋、喚渡、小舟)を用いていて、よく似た状況を詠んでいることが分かる。なお中国の詩文に『古今画譜』の詩賛の典拠を求めたところ、すべての内容が合致する詩を見出すことはできなかったが、『四庫全書』子部、類書類『錦繍萬花谷』後集巻二十六(撰者不祥、南宋淳煕年間刊)「橋」の項に唐詩として「春水断橋人不渡、小舟Ü出柳陰来」(七言二句)という、よく似た詩があることが分かった。終南がこの『錦繍萬花谷』に載る詩文を目にしていた可能性や、他の中国の詩文から素材を得ている可能性も十分考慮される必要があるといえる(注17)。一方で、この終南の賛が『古今画譜』第22図〔図4〕の賛と近似することを手がかりとして、指墨山水図〔図6〕と『古今画譜』第22図とを比べてみると、画面下方、前景の岸辺で、対岸の柳の方面からやってくる舟を待つという、岸辺両岸の構図がよく似ており、『古今画譜』の図〔図4〕のイメージが、詩賛とともにこの指墨山水図中に重ね合わせられているように見受けられるのである。終南の賛が、大雅同意のもと、画の完成後の比較的早い時期に記されたと考えるならば(注18)、指墨山水図〔図6〕において、2つの画譜、『古今画譜』〔図4〕、『顧氏画譜』〔図7〕の印象が重ね合わされたことが、大雅オリジナルの両岸に柳を描く柳陰呼舟の図様、つまり柳陰呼舟図〔図5〕を生み出す契機となり、さらに『大雅堂画法』の図〔図3〕の原本へと至ったのではないかと考えられるのである。それでは東博本〔図2〕は、どのような構成要素で成り立っていると考えられるだろうか。4.柳陰呼舟の図様の継承―大雅から玉瀾へ東博本〔図2〕について、大雅の若描2作品〔図5、6〕とそれに関連する画譜①舟を漕ぐ人物の前傾姿勢が、池大雅筆、指墨山水図〔図6〕のものに似る。②荷物を担ぐ従者の荷物が、池大雅筆、柳陰呼舟図〔図5〕の足元に置かれた荷物

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