―216―を想起させ、東博本〔図2〕の従者の姿へとつながるように思われる。③舟を指差す童子(従者の背丈と比すれば童子に見える)が、『顧氏画譜』趙令穣画〔図7〕中、高士の手を引っ張って舟を指差す童子の姿に通じる。童子が舟を見つけて指差すという点で共通し、それが単独で前に出て、高士は不在となったようである。④前景の柳と柳の間に挟まれた樹木の組み合わせが『顧氏画譜』趙令穣画〔図7〕画面左下方の樹木の組み合わせに一致する。⑤『古今画譜』第22図〔図4〕から、画面前景の岸辺の描写を学んでいるようである。大雅が玉瀾に残した手本(『大雅堂画法』の原本)に“柳陰呼渡”と題された図が含まれていたことは、2者の間にこの図との関わりがあったことを示す証拠ともなり重要であるが、東博本〔図2〕は、『大雅堂画法』の図のみから直接生み出された作品とは考えにくい。柳陰呼舟図〔図5〕の構図を引き継ぎつつ、大雅の過去の作画と画譜解釈の記憶と経験に後押しされながら制作されたのではないだろうか。大雅の若描きの2作品、この2作品以外の大雅の作品や画譜を玉瀾が実見して、一人で制作にあたった可能性も考慮されるべきであろうが、大雅生前に大雅立会いのもと、大雅の記憶を辿って振り返りながら、夫婦で改めて画譜をめくりなおすような姿も想像されるのである。東博本〔図2〕の図様は、大雅の若描き2点、『大雅堂画法』の該当図と比べると、上記に因むような各所の具体的な描き込みを伴うことによって、単なる大雅の引き写しでは為しえない構築的な画面を成り立たせていることが分かる。そのような構築性への志向に由来するのか(注19)、大雅の実作や関連する画譜に比べて、岸辺は高所へと持ち上げられ、やや舟を寄せにくい状況になっている点も興味深い。おわりにこのように考察を進めてくると、東博本〔図2〕は大雅の過去の制作過程や作画の素材とした画譜を細かに突き止めて、玉瀾風に擬して創作された作品とは考えがたい。まずは柳陰呼舟の図様についての一試論を呈し、今後は、他の扇面の図様についても類似作品との比較や各図の制作背景の検討がなされ、その上で十面それぞれに趣向がこらされた構成全体についても総合的に分析がなされることが期待される。
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