鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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8西域北道における誓願図の研究―222―――ベゼクリク石窟を中心に――研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程  森  美智代はじめに本研究は、西域北道、すなわちタリム盆地北縁に連なる諸オアシスに行われた、誓願図とよばれる仏教図像の成立と伝播・受容の諸相を追うことを目的とする。誓願図の研究は、前世紀初頭に西域北道の遺跡を重点的に調査したドイツ探検隊の報告に始まる。一連の報告書によると誓願図の作例はベゼクリク石窟を中心にトルファン盆地にウイグル時代のものが多数のこり、西方のカラシャールやクチャにも、おそらくトルファンより先行する作例が少数みられるという(注1)。その後、同探検隊が持ち帰ったベゼクリク第20窟(以下窟番号は全て現地現行のものに統一する)の誓願図のサンスクリット銘研究が行われた。その結果、銘文は釈迦がその数々の前生において過去仏に対して奉仕・布施・供養を行ったり、そのもとで出家するという内容であることが判明した(注2)。また銘文と同様の内容が『根本説一切有部毘奈耶薬事』の偈の中に見出されることから、誓願図は小乗説一切有部の影響のもとで制作されたと考えられている(注3)。また筆者はかつて、クチャ地方に誓願図の原型とおぼしい作例が多数存在し、そのうちにはドイツ隊が報告しているものより早い、六・七世紀に遡りうるものがあることを指摘した(注4)。古代においてクチャ地方、すなわち亀茲国はよく知られているように西域における説一切有部の中心地であった。ウイグル人は十世紀後半に仏教化する過程で東西様々の系統の仏教をとり入れたが、特に初期にはクチャ・カラシャール一帯のトカラ人によって行われていた説一切有部系の仏教を積極的に学んだという(注5)。クチャに誓願図の原型が認められたことで、誓願図とトカラ系説一切有部仏教の関わりはより一層確実になったといえる。このように、誓願図の展開を追うことは、西域北道の仏教の担い手がトカラ人からウイグル人へうつっていく過程を追うことでもある。本研究では、クチャ地方の石窟とトルファンのベゼクリク石窟で調査を行って、現地に残る誓願図の作例を記録、整理した。そのうちクチャ地方の石窟の調査研究成果はあらためて別稿にて発表することとし、ここではベゼクリク石窟の調査結果を提示するとともに、誓願図の制作背景をめぐって、ベゼクリクの側からみたクチャとの関係を考察したい。

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