鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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注Albert Grünwedel, Bericht über archäologische Arbeiten in Idikutschari und Umgebung im Winter1902- H. Lüders, “Die Pranidhibilder in neunten Tempel von Bäzäklik”, Sitzungsberichte der K. preussischen■E.Huber, “Étude Bouddhiques1. Les Fresques Inscriptes de Turfan”, Bulletin de l’École Française d’■学会における口頭発表。「亀茲石窟における誓願図について」(第50回国際東方学者会議 東京■森安孝夫「チベット文字で書かれたウィグル文仏教教理問答」『大阪大学文学部紀要』25、■第31窟の壁画残存状況など。■例えば、ここで武人形とよぶ図像と天人形とよぶ図像をともに王と記述したり、天人形と女性■亀茲石窟の説法図の形式に関しては、拙稿「クチャの説法図に関する一考察」『早稲田大学大―229―よいためでもあるが、そこにはやはりしかるべき事情があるものと考えるべきである。ベゼクリクの誓願図を描く窟の大部分は、亀茲石窟と同様に釈迦を中心とする題材の壁画で構成されていた。このような窟の造営に、説一切有部教団が関与していたと想定できるのではないだろうか。ベゼクリクからは説一切有部系の仏教写本も出土している(注22)。トルファンにおいて有部系の仏教は早くからおこなわれていたであろうが、仏教美術の上にその顕著な影響が認められるのはウイグル時代に入ってからである。ベゼクリクにはかなりの数のウイグル王侯寄進者像が残り、この石窟が王室関係者からの庇護を受けていたことがうかがえる。ウイグル王室の仏教信仰と説一切有部教団、ベゼクリク石窟は密接な関係があったと推測できるが、その具体的様相については今後の研究を俟ちたい。Akademie der Wissenschaften, 1913なお銘文には「誓願」という語が含まれないことから、「誓願図」という呼称が適切であるか問題視されてきた。しかし諸経典に見られる銘文と同様の物語の構成や文脈を整理すると、釈迦が前生において諸の過去仏に行った供養は未来成仏の誓願が前提になっており、誓願図という名称はふさわしいと考えられる。村上(平野)真完「ベゼクリク第九号窟寺銘文による誓願図の考察」『美術研究』218、1961年、『西域の仏教:ベゼクリク誓願画考』第三文明社、1984年Éxtrême Orient,XIV, 1914.村上(平野)真完前掲文献なお、その後の研究で説一切有部と根本説一切有部は同一のものであることが判明している。榎本文雄「『根本説一切有部』と『説一切有部』」『印度学仏教学研究』47−1,1998年会議、日本教育会館、2005年5月)天人形の図像を同じように記述するなど。1903, München, 1905――, Altbuddhistische Kultstätten in Chinesisch-Turkistan, Berlin, 1912A.von Le Coq, Chotscho, Berlin, 1913――, Die Buddhistisch Spätantike in Mittelasien V, Neue Bildwerke, Berlin, 19261985年

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