誓願図中で、中央の仏(過去仏)を礼拝するこの図像を仏と解せないことはいうまでもない。井上豪氏は、本図像と共通するキジル石窟中心柱窟天井に描かれるいわゆる「飛翔する仏」を、仏と僧の中間的存在である僻支仏をあらわしたものとする(「キジル石窟のヴォールト天井壁画と『飛翔する仏』の図像」吉村怜博士古稀記念会編『東洋美術史論叢』雄山閣、1999年)。また亀茲壁画においては阿難やその他の仏弟子がしばしば肉髻をもった姿であらわされている。第24窟の左壁第2主題は、現在、画面の損傷が激しく図様を確認することができないが、グリュンヴェーデルの記述によると仏陀の向く側に跪く武人形、反対側に旗をもつ武人形が描かれるという。しかしグリュンヴェーデルは他の箇所でも傘を旗と記録しているので、この図も傘蓋供養を描いたものであったのだろう。この図では、仏の向くのと反対側の武人形立像の上半身が失われている。しかし、仏の向く側、跪く武人形の上方に傘を持つ天人形が描かれている。他の傘蓋供養の図においても同様の図像がみられることから、同主題と推定できる。現在は図様が確認できない。グリュンヴェーデルの記述によると仏の向く側に描かれる菩薩形は盆をもつといい、ここにあげた他の図と異なる。しかし、上部に円光とその中に跪く人物を描くという特徴的な図像を配すという点で他の図と共通しており、そのヴァリエーションと考えられる。画面が砂をかぶるために、婆羅門の姿勢は不明である。ただし反対側に武人形を配する点が第松本栄一前掲書。二仏併坐の図像がみられることから、法華経変相図と推測される。熊谷宣夫「ベゼクリク第八 グリュンヴェーデルは、誓願図と千仏部を古いとみている。■熊谷宣夫「西域の美術」『西域文化研究第五 中央アジア仏教美術』法蔵館、1962年 丁明夷・馬世長「キジル石窟の仏伝壁画」『中国石窟 キジル石窟3』平凡社、1985年等。■買応逸「伯孜克里克石窟初探」『新疆石窟吐魯番伯孜克里克石窟』新疆人民出版社、上海人民■村上真完前掲書。―230―37窟第1主題と共通するため、仮に同様の主題に分類した。松本栄一『燉煌画の研究』東方文化学院東京研究所、1937年百済康義氏は第20窟をめぐる論考の中で、これらの壁画を「古来西域北道に流通した仏教諸派を一堂に融和させて描いたモニュメント」ではなかったかと推測される。「ベゼクリク壁画から見た西域北道仏教の一形態――第九号窟の法恵像をめぐって――」『研究発表と座談会 キジルを中心とする西域仏教美術の諸問題』仏教美術研究上野記念財団助成研究会、1992年学院文学研究科紀要』第47輯第3分冊、2002年3月。号窟寺将来の壁画――主としてその千仏像について――」『美術研究』第178号、1955年3月美術出版社、1990年
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