―15―1913年に六角紫水(1867−1950)、岡部覚弥(1873−1918)が「岡倉の写真や絵や詩に会うことができます」とガードナー夫人に贈ったものである(注14)。越後赤倉の写真は「最後に息を引き取った場所」として1915年に富田幸次郎から、また弁当箱はデンマン・ロス(1853−1935)が岡倉から贈られたものを夫人に贈呈したものである(注15)。この弁当箱はロスが日本を旅行したとき同行した岡倉が使っていたもので、那智の滝を訪れたとき岡倉が茶を点て二人で飲んだ茶碗が入っている。ロスは「岡倉の思い出のために持っていてください」と1916年夫人に託した。またジョセフィーヌ・マクラウド(1858−1949)が、1913年岡倉の形見としてガードナー夫人に贈ったPine Trees and the Full Moon(横山大観作、1904年、絹本着色)も中国室に納められた(注16)。このように中国室は、ガードナー夫人だけでなく日米の友人たちにとっても岡倉の記憶の安息所であった。中国室は彼らが岡倉との思い出を共有する空間だったのである。おわりに以上中国室の歴史やコレクションの内容について概観してきたが、最後に中国室という空間を岡倉が『茶の本』で描いた「茶室」と比較し、ガードナー夫人にとっての意味を考察したい。東西の美術品が混在して陳列された旧中国室は、岡倉が「茶室とは正反対の装飾法」と批判した西洋室内の典型であった(注17)。一方仏像や仏具を中心に東洋美術品だけを置いた中国室は「仏教と東洋」というテーマに貫かれており、『茶の本』の「真に美を理解することは、何らかの中心主題に集中することではじめて可能となる」という部分に呼応する(注18)。ハドリーが無価値と断じた展示物からガードナー夫人は自分の趣味にかなった中国室を作り上げた。これも茶室が内包する「好き家」の概念、「個人の芸術的要求に出会うために作られた建物」と合致する(注19)。また、岡倉は茶室の左右非対称性から西洋とは違う完全の概念を説き、心の中で不完全なものを完全なものにすることに真の美を見出した。そして茶室を完全にすることは、客ひとりひとりが自分との関わりのなかで想像することに委ねられていると説いた。中国室で過ごすとき、ガードナー夫人や友人たちは、東洋美術、仏教、茶道具などによって暗示されるただひとりの人物に思いを馳せたことだろう。さらに、茶室は外界から離れた「真の聖域」であり「何ものにも邪魔されず美の崇拝に身を捧げることができる」空間とされた(注20)。公への奉仕を生きがいとしたガードナー夫人が中国室を非公開にし、フェンウェイ・コートで唯一外界から閉じた空間としたのは、ここが神聖な場所だったからに他ならない。表面的には、仏像や仏具が所狭し
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