:藝州美術協会と広島の美術家―245―――《眼のある風景》に至る靉光の活動を中心に――研 究 者:広島県立美術館 学芸員 藤崎藝州美術協会は、近代日本洋画史に独自の足跡を残した靉光(1907−1946広島県北広島町出身)にとって、画業確立期にあたる昭和11年(1936)、広島県産業奨励館において第1回展(注1)を開催した。靉光の出品作38点のうち、ライオンやシシと名づけられた12点にも及ぶ作品の存在は、《眼のある風景》(昭和13・1938年)に帰結するなど、現在では独自の画業の端緒とも位置づけられるこのモチーフの発見が、画家自身にとっても当時から重視されていたことを物語る。同展が、郷里でまとまった作品を発表する最初の機会であるとともに、他の新進作家(注2)との競演であったことを考え合わせると、画家として確かな手ごたえを掴んだ靉光にとって、まさに時宜を得た絶好の舞台の到来であったといってよい。「生れた土地で作品の發表機關が作られた、十分に油の乗りきつた作品を出品する考です」(注3)という靉光の言葉には、自信に裏付けられた強い意気込みが窺える。本稿は、靉光をはじめ東京で活躍する美術家と、広島美術界との大きな接点となった藝州美術協会について、その設立や活動を、靉光や同会と深く関わった広島の美術家・文化人たちの動向に即して辿るものである。靉光が画家として重要な岐路に立つと同時期に成立した同会が、《眼のある風景》にいたる靉光の制作環境を見つめ直す、重要な視点の一つであると考えられるからである。藝州美術協会の設立と広島の文化人・佐伯卓造藝州美術協会の設立については、現在は直接の関係者からの証言は得られず、文献としても非常に限られた資料しか確認できない。わずかに経緯について触れた、丸木位里の次のような言葉がある。「昨年の秋、私の個展のときは色々と御聲援に預かり、思ひがけない好成績を擧げることが出来ましてうれしく思って居ります、今秋はぜひ第二回目の個展を成したいと思いましてその準備に取りかゝって居りましたところ、在京の同志といつのまにやらこんな展覧會の話がもち上り。『それはよからう』と云ふことになって私もそのうちの一員に加へてもらったのです」(注4)。昨秋の個展とは、藝州展開催のちょうど1年前に広島で開催した初個展(注5)と考えられる。二度目の個展準備の開始時期は不明だが、藝州展開催は慌ただしく決定したと見え、きっかけとなった位里自身が「突然の事」だったと語り、短い準備期間の中で佐伯の尽綾
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