―246―力が不可欠だったことを強調している(注6)。位里は後にも、「一九三六年頃に、東京にいた広島出身の連中で、広島で一緒に展覧会をやろうという話が誰いうともなく持ち上がった」「その時に佐伯卓三さんという(中略)広島の文化人なんだが、いろいろ世話をしてくれることになった」(注7)と述べており、特定の主義主張を共有する同志の集合というよりも、郷里での作品発表に向けて、かねて親交のあった美術家が集い、実務的には佐伯が尽力したと読める。展覧会場入口で撮影した記念写真には、位里の手になる看板の横に、佐伯を中心にして五人の作家が並んでいる〔図1〕。第1回展開催時の同人で、左から、靉光、彫刻家・中川為延、油彩画家・野村守夫、佐伯卓造、日本画家・丸木位里、船田玉樹である。靉光と同人たちの交友を見てみると、もっともつきあいが長いのは、画家を志していた印刷所時代からの旧友・野村守夫だろう。玉樹とは、靉光が兄事していた広島の前衛美術家・山路商のアトリエで知り合った。培風寮時代から交友を重ね、藝州展に際してはともに帰郷(注8)。玉樹宅には協会の事務所も置かれていた。位里とは玉樹を介して知り合い(注9)、昭和11〜12年頃には植物園や動物園でのスケッチに頻繁に同行している(注10)。中川については不明であるが、靉光の知人名簿や後述する廣島美術人協会員としても名前があり、交友が続いたことが確認できる。異なる分野で活躍する作家が、広島での作品発表という一点で集まった会の性格から推して、短期間のうちに広島での展覧会開催にこぎつけるには、佐伯卓造の存在が大きかったことが容易に想像される。これまでの靉光研究では、佐伯については時折名前が言及されるに過ぎなかったため、靉光との接点も含め以下に紹介したい(注11)。佐伯卓造〔図2〕は明治14年(1881)、富裕な米問屋の次男として広島市に生まれた。明治32年(1899)渡米し、カリフォルニア州の知人のもとに身を寄せる。英語を学ぶため小学校に編入学するも、後にはビジネスカレッジにまで進み、卒業後はストックトンで佐伯便利社を開業。社名は、言葉の不自由な在米日本人のため、よろず相談引き受けますとの意図によるという。米人弁護士の通訳や鉄道の敷設など、語学力を活かして多岐にわたる仕事を請け負い、日本人排斥運動が進むアメリカで同国人の地位向上のために働いた。名士となった佐伯のもとには、多くの日本人が訪れたというが、そのなかにはボストン美術館に務めた岡倉覚三も含まれている。大正2年(1913)帰国。広島で印刷会社を経営していた兄に代わって仕事を始め、郷里で佐伯便利社を興した。大正期には、アメリカから飛行士を招聘し、広島初となった曲芸飛行の主催をはじめ、多種多様な文化的イベントも行った。本業である印刷業では、アメリカ製の印刷機を導入した中国地方きっての印刷所として、帝国人絹や江田島の海軍兵学校の
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