―247―仕事なども担っていたという。なかでも注目されるのが、佐伯便利社においた實現社から発行した雑誌『實現』で、芸術関係の情報が乏しかった当時の新聞紙面を補完するごとく、郷土作家に焦点を当てた貴重な地域密着型美術雑誌であり、総合芸術雑誌でもあった。作家の近況や作品を誌面で展開するとともに、個展やグループ展、座談会等も主催、また自らも作品を購入して支援し、コレクターとしても知られた。昭和20年(1945)、爆心地に近い猿楽町にあった佐伯便利社は灰燼に帰したが、疎開させていた機械類をもとに、戦後もいち早く開業している。佐伯と協会同人たちとの接触や経緯については不明の点が多いが、靉光との接点としては、画家・木谷徳三(注12)の存在が挙げられる。靉光と木谷は、広島時代からの友人で、大正末期に木谷が上京したことから、東京でも親しい関係が続いた。木谷が靉光に紹介した親類・横山周一は、富裕な広島の財界人で、佐伯卓造とも懇意であったという。若くして渡米し、日本人の地位向上を指向するなど社会的貢献への高い意識を保持して帰国した佐伯が、安定した経済基盤のもと郷土の文化支援を試みていく過程で、藝州展は開催された。広島では稀にみる大展覧会となった同展は、同時に高い質を兼ね備えた展覧会として「近来の大出来」(注13)といわれる成功を収めることになる。靉光の第1回藝州美術協会展出品作靉光のライオン連作の開始時期は明らかではないが、画業における重要性は、友人・寺田政明も指摘している。ライオンと出会って、これはやれると靉光は思ったのではないかと語り(注14)、動物園ではあらゆる角度からデッサンを繰り返し、アトリエでは肢体のかたちにくり抜いたボール紙で、光と影の対比を研究していた靉光の制作風景を伝える(注15)。光と影は、この時代から宋元画風ともいわれる一連の静物画までの靉光作品を考えるときに、とりわけ重要な問題であるが、ライオンにおける光と影とは、その雄大な形態が生み出す物理的な明暗のほかにも、雄々しさの象徴と捕らわれの境遇という、両面性の反映と読みとることも可能だろう。ライオンと題した出品作が確認できる最初の展覧会は、第1回藝州展より半年早い第6回独立展(注16)である。同展には2点の《ライオン》〔図3〕〔図4〕を発表、また続く第17回中央美術展(注17)には《シシ》〔図5〕を出品している。独立展出品作に対しては、「ライオン二點は表現は堅實味をもって優作」(注18)「美しさを持ってゐる」(注19)「二三年荒んでゐたが今年は色にうるほひがあって形にも趣がある」(注20)と好評が続き、まもなく発表した《シシ》では、中央美術準賞を受賞した。
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