鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―248―「電線」や「空」やに見るネオクラシツクの匂ひから、更に「未開の森」の美しい古第1回藝州展には、これら3点が出品されたことが確認できる(注21)。また、《ライオン》〔図6〕と《枯木》〔図7〕も出品の可能性が高い。両作は、同展終了後に「藝州美術協會同人作品」として『實現』に掲載されている。このほか、出品作の図像の手がかりになるものとして、廣隆群の作品評がある。「獨立展の作品は何れも畫面と相組む全幅の美−と言はうか、大きく且ぬかりなく取組んだ仕事に好感が持てる。併し一方我々は、作者の純粋な繪畫的主觀は白描風な「牛」から始まって「土」や典美にぶつつかつて作者の眞面目な底光りのする美の目標を發見する。今此の技法が完成されたものとは云へないだらうが、唯美な、古典繪畫の新しい解釋として期待してよいであらう」(注22)。作品を推定するには不足だが、《眼のある風景》という、のちにシュルレアリスムの記念碑的作品と呼ばれる、ヨーロッパの前衛美術にもっとも接近した作品への途上にある靉光が、「白描風の作」を描き、さらには「古典繪畫の新しい解釋」を「絵画的主観として」表現しているという点は注目すべきであろう。東洋画への接近、また墨による表現の追求は、現在では概ね1940年代の作として知られる。油絵においては、《花園》以後の作品を指すことが一般的で、宋元画風とも称されてきた。東洋的作風の影響源としては、国立博物館での古画研究や、丸木位里、奥田元宋、船田玉樹ら日本画家との交流などが指摘されているところでもある。しかし一方、古画の研究は、より以前からなされていたとの位里の発言もあり、模索・混迷期にあたるロウ画時代には既に始まっていたと見ることも可能だろう。また、靉光が特に関心を抱いていた具体的作品が、現時点で特定されているわけでもない。よってここでは、藝州展周辺で交流した日本画家に限り、その影響関係を作品に即して見ていくこととしたい。各同人の第1回藝州展出品作には、所属展で発表した新作や自信作が含まれている。中川は文展出品の《徒然》を、野村は浪漫的で装飾的な独自の方向性を示した《中央線にて東京へ》を、玉樹は院展出品の《花の朝》を、位里は青龍社展出品の《池》を、靉光は《シシ》〔図5〕をそれぞれ出品、展覧会リーフレットに図版で紹介した。野村の《中央線〜》は、こまかなモチーフを積み重ねて画面を埋め尽くした作品で、一頭のライオンの量塊のみで画面を構成する靉光の《シシ》とは、明らかな対照を見せている。玉樹は《花の朝》《露花》等を出品。「見事な線の流れ」「水々しい技巧」(注23)と評されるが、この時代は「御舟七分、古径三分の画風」ともいわれ、独自の画風の確立には至っていなかったと見える。靉光からも再三「君自身の絵はどこにあるのか。自分の絵をえがけ」といわれた(注24)ように、玉樹が先輩画家である靉光か

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