―250―画家たちと交流し、独自性を追及した位里と靉光とは、元来共通の志向を持っていた。それは、後に「日本の古典から今日に至るまでの絵画の問題、中国の絵画の問題、西洋のこと、そういう比較やら理論の研究をして、われわれはどうすべきかということを勉強した」という歴程美術協会で、位里が活動することからも明らかといえよう。靉光におけるシュルレアリスム的作風の展開は、ゴッホやマチス、ピカソといった、画業初期に影響を受けた画家たちの延長線上にある前衛美術として関心を持つことでなされたというような、単純な経路を辿って生まれたものではない。東洋画への接近や新興の日本画の研究・咀嚼もまた、《眼のある風景》へとつながる重要な道筋だったことが、藝州展前後の作品や制作環境において指摘できる点を強調しておきたい。第1回藝州展以後の靉光と広島の美術家最後に、藝州美術協会のその後の活動を見ることで、同会の意義について考える参考としたい。1回展の展評や活動報告を掲載した『實現』の同号には、早くも2回展の予告が掲載されている。開催時期は翌年の11月とし、1回展の日本画、洋画、彫塑に加え、工芸品も展示する予定であると告げられている。以後の号では、同人の入退会や近況を伝える記事が続いた後、10月13日から7日間開催すると具体的な期日が掲載される(注27)。しかし、その翌号では「時局に顧み」たことを理由に、展覧会の開催が延期された告知が載る。かわって開かれたと考えられるのが、傷病将兵士慰問献画展で、第1回展と同様、産業奨励館で開催された後、一部の作品が陸・海軍病院に献納された。その後は、昭和13年春まで「藝州美術協会」の存在が『實現』誌面で確認できる。同年末には、「廣島藝術協会」の結成が報じられ、藝州同人の多くが会員として参加していることから、同会が発展的に解消し、組織した可能性が高い。廣島芸術協会設立の数年後には、廣島美術人協会の名前も登場するが、会員・同人の重複が多く、明らかに相互に関連があったと認められる。これらの三つの会や同人について、『實現』各号や関連紙面から辿れる主な動向は、別表のとおりである。構成員に多少の増減はあるものの複数の団体に所属する作家も多く、展覧会や座談会等を通じて、長期にわたり途切れることなくゆるやかなネットワークを維持していたことがわかる。藝州美術協会は、元来、達成すべき目標や、共通理念を持つことなく結成された会であった。展覧会のリーフレットにもう一度戻ってみよう。同人の連名になる「藝州美術協會第一回展に就きて」という文章においても、郷里で展観できることへの喜びと意気込みは率直に語られるものの、趣旨や目標などへの言及はない。むしろ、「新
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