鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―251―進作家の推奨」にできる限り尽力し、その指導や後援にあたるのが郷土人としてのもっとも高尚な義務だとする主催の實現社のほうが、目標や意義を明確に認識しているといえるだろう。特定の主義を掲げず、親和的な結びつきに土台を置くという会の性格が、ある程度の自由度とともに、戦争に一直線に進む時代にあっては結束力の不足、ひいては存続の困難にも通じたのではないかと考えられる。とりわけ、佐伯便利社は広島の一大印刷所であり、軍関係の出版物の印刷も任されていたとあっては、時局に対応した展覧会の開催の方向を探らざるを得なかったのではないかとも考えられる。しかしその一方で、のちに生まれる広島の美術家による団体結成の母胎となっている点は見のがせない。郷土出身の美術家、文士らの交友団体として結成された廣島芸術協会を見ても、藝州美術協会の存在に対する同人各人の肯定が読みとれるといってよいだろう。靉光がライオンと藝州美術協会の時期を経て、もっともシュルレアリスムに接近したといわれる《眼のある風景》を制作したと期を一にするように、位里はエルンストら前衛芸術の影響を受けつつ歴程美術協会へと歩んだ。靉光とシュルレアリスムという問題については、《眼のある風景》における明らかな受容が表面化した後に、東洋画への理解を媒介として、1940年代に始まる一連の静物画において独自のシュルレアリスム解釈を見せた、という見方が一般的だろう。しかし、靉光のシュルレアリスム理解は、東洋画への接近や新しい日本画の創造を目指す画家たちの手法を取り込みながら、それより遡行する藝州展の時期に始まり深化していったように思えてならない。《眼のある風景》で頂点に達したといわれるシュルレアリスム的傾向が、数年後に《二重像》などのかたちで再び現れる理由は、疑問の余地なく説かれているとは言い難い。しかし、東洋画への接近という観点から見つめなおすとき、その近接が媒介となって初めて《眼のある風景》に結実したと見るならば、作品に見るシュルレアリスム的傾向表出の時代的な間隙はほとんど気にならなくなる。ライオンの時代から1940年代初期の静物画に至るまで、東洋画とシュルレアリスムとの接触の度合いに多少の振幅があったに過ぎず、その起伏が作品として表面化しただけだということになる。《二重像》など一連の細密画が、墨と筆の仕事であることはいうまでもないだろう。位里に代表される日本画家との交流や共同制作によって促された、靉光の東洋画に対する関心の目覚めは、大きな波となり靉光のシュルレアリスム需要と咀嚼に結びついた。そしてその土壌として、異分野で活躍する新進作家の自由な集まりとしての藝

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