鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―258―うサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂のフレスコ画(注4)においても、マリアは椅子に座っている〔図5〕。実は、サン・ロレンツォ作品のマリアの着想源として、1430年代半ばのドナテッロによる《受胎告知》〔図6〕が指摘されている(注5)。ドナテッロ作品では、サン・ロレンツォ作品と同様の縦に長い空間にマリアとガブリエルが納められており、彼女の右足が曲げられ、左足に体重がかかっている点もサン・ロレンツォ作品と酷似している。リッピがこのドナテッロ作品から大いに示唆を得たことは間違いないと思われる。しかし、ここでリッピによる重要な変更を指摘しておきたい。それはマリアの手の表現である。左手に書物を持ち、右手で胸のあたりを押さえるというドナテッロ作品のマリアの両手は、14世紀のシエナ派以来の表現を受け継いでいる(注6)。これに対してリッピのマリアは本を持たず、両手を上下に開いているのである。受胎告知における手の表現は、例えば、アンジェリコ作品のように両手を胸の前で交差する仕草は神の意志を受け入れる従順さを示すなど、とりわけマリアの心情表現に関わるものとして注目される。受胎告知の直接の典拠である新約聖書のルカによる福音書でごく簡潔に述べられている彼女の精神状態については、すでに教父たちの時代から詳細な考察が行われてきた。それによれば、受胎告知は①天使の挨拶、②マリアの驚き、③マリアの質問、④天使の返答・それに対するマリアの謙虚な同意、という四場面にわけられる。このように受胎告知場面を分割して解釈する伝統は中世をへて15世紀まで受け継がれ、聖人伝説や民衆向けの説教など、大衆文化の中にも広く浸透した(注7)。例えば、15世紀のフランチェスコ会説教士フラ・ロベルトはその説教の中で、受胎告知場面で天使と会話している際のマリアの気持ちは、天使の挨拶に対する動揺から、熟考、問いかけをへて従順、そして喜びへと変化すると説く。バクサンダールをはじめとする研究者たちは、この分割にしたがって、リッピによるサン・ロレンツォ作品を、最初の「動揺」を描いた好例としてとりあげてきた(注8)。その理由はまず、本作品のマリアが見せる身振り、とりわけ手の表現によると考えられる。確かに、彼女は天使の出現に対して驚き戸惑っているように見えるのである。本論では、マリアの身振りから受ける印象に加え、なお以下の観点からこの解釈を補強しておきたい。それは、リッピが参照したドナテッロ作品では、マリアは明らかに天使の来訪に驚き、動揺していると考えられることである。マリアが体を引いているのは彼女のとまどいを表し、開いたままの書物を腹部に押し付けているのは天使の来訪が突然だったことを演出している。さらに、ドナテッロ作品のマリアの背後には、

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