鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―259―正面向きの椅子を確認することができる。すなわち、彼女は天使の来訪に驚いて、まさに椅子から「立ち上がった」瞬間なのである。受胎告知場面における「立ち上がる」という動作と動揺や戸惑いとの関連は、当時の宗教劇の中にも見つけることができる(注9)。例えば、1439年にフィレンツェを訪れたロシア人司教が見たという受胎告知劇では、マリアは当初座っているが、「おめでとう、マリア」という最初の天使の挨拶に驚いて立ち上がったという(注10)。また、15世紀後半に書かれた受胎告知劇の台本でも、マリアは挨拶に驚き立ち上がることになっている(注11)。このようにドナテッロ作品が明確に動揺するマリアを表現しているとするなら、それに示唆を受けたリッピのサン・ロレンツォ作品のマリアも、驚きや戸惑いといった彼女の動揺を表現したものとみなすのが自然だろう。ただリッピ作品のマリアは、「立ち上がった」のではなくて最初から立っていたことには留意しておきたい。彼女の前にある書見台は立って使用する高さのものであり、椅子も描かれていないのである。リッピは、なぜか椅子を省いて背の高い書見台を配置した。先行作例や宗教劇の例を思い出すなら、椅子は、驚いて立ち上がったことを演出するための重要な小道具だったはずである。おそらくリッピは、何らかのより重要な理由のために椅子を描かなかったのだ(注12)。そのため、マリアの動揺をちがった演出方法で明確に表現する必要が生じた。そのとき、リッピは彼女の手を使ったのではないだろうか。書見台を配したことでマリアは書物を持つ必要がなくなり、先行作例にはない自由で大胆な手の動きによる生き生きとした感情表現が可能となったのである。リッピが描いたマリアの影響を同時代の作例に探ってみるならば、まずアレッシオ・ヴァルドヴィネッティの《受胎告知》〔図9〕が挙げられるだろう。人物の構成、マリアの体の向きや、書物を持たず背の高い書見台が描かれていることが、サン・ロレンツォ作品と共通している。また時代は下るが、ロレンツォ・クレディによる《受胎告知》〔図10〕でも、リッピ作品にきわめて近いマリアが描かれている。ここでは、マリアの右足の形や、書物を持たないこと、椅子がなく背の高い書見台があることがサン・ロレンツォ作品に一致する。同じ1480年代のドメニコ・ギルランダイオによるフレスコ画《受胎告知》〔図11〕も、マリアの両手の仕草は異なるが、右足の位置や角度、とりわけ腹部の襞表現は、サン・ロレンツォ作品によく似ている。これらの例からは、直接的に模倣されることは少なかったものの、サン・ロレンツォ作品の新しいマリア像が、同世代または次世代の画家に一定の印象を与え続けていたことがうかがえる。

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