鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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狩野探幽「富士山図」における左右非対称・稜線の長い構図の成立―267―研 究 者:三井記念美術館 学芸員  樋 口 一 貴はじめに「富士山の頂は確かに美しいが、裳裾の描く曲線のひろがりは、また一段の美しさである。」(注1)静岡市に生まれて日々富士を仰ぎ、あるいはこの山に登ったエッセイスト山川静夫氏は語る。そして、その裾野は日本人の原風景として、はるかブラジルに暮らす人々の心にまでひろがっていると結ぶ。富士山は、古来様々な美術工芸品のモチーフとして取り上げられてきた。現存する最古の絵画遺例は、延久元年(1069)の秦致貞「聖徳太子絵伝」(東京国立博物館)であるが、それ以前からも名所絵屏風の画題となっていたことがうかがえる。その後、中世・近世と富士は描き続けられ、近代・現代にいたってもその魅力は人々を惹きつけてやまない。富士山の絵画史については成瀬不二雄氏の大著があり(注2)、また竹谷靱負氏は絵画にあらわされた富士の山容を、時代を追って3期に分類した。すなわち、第1期平安時代の急斜面・はしご型、第2期鎌倉〜江戸前期のゆるやかな三峰型、第3期江戸中期以降の個性的実写的な描写と伝統的な三峰型の並存である(注3)。江戸時代の富士図には高さとともに稜線の長さを強調して表現したものが少なくない。それらは富士を画面の左右いずれかに寄せ、片側の稜線を伸ばすものである。こうした構図は室町時代の富士図には系統的には見ることができず、近世特有のものといってよい。本研究は、左右対称の富士図から非対称のそれへ富士図が変容してゆく過程において、後者の成立を論ずるものである。1.狩野探幽「富士山図」の検討左右非対称・稜線の長い富士図の初期の作例としては、狩野探幽(1602−74)「富士山図」(静岡県立美術館)〔図1〕を挙げたい。探幽の富士愛好は周知のところであるが、この絵師は25図を超える富士図を遺しており、また富士石なる盆石を愛玩していたという(注4)。こうした探幽の富士図については、江戸時代中に相対する二つの評言がある。桑山玉洲(1746−99)の『絵事鄙言』では、「探幽が妙技は西施を見るが如し、誰か是を美とせざらん、古今水墨を以て富士の景を写す者多しと云へども、此景に於ては

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