―268―(富士山本宮浅間大社)のように、画面の中央に左右対称で描かれ、高さあるいは霊此翁に過る有らじとぞ覚ゆ。其造れる所、雲霞呑吐変幻の態、筆墨の蹟を見ずして清韻象外に溢れたり、是深く真景を熟覧し気韻を以て象形を覓めたる所なり。」と絶賛し、一方司馬江漢(1747−1818)は『春波楼筆記』で、「吾国画家あり、土佐家、狩野家、近来唐画家あり、此富士を写す事を知らず、探幽富士の画多し、少しも富士に似ず、只筆意筆勢を以てするのみ。」と批判する。真景を写しているか否かとい議論については評者の主観が入り込む余地もあり、一概に論じることはできないが、玉洲が続けて「誠に富士峰を写す者は、此翁の法格に傚はずんば、其清趣は難得からん」と記したことは注目される。実際、江戸幕府御用絵師の総帥狩野探幽画は富士図の典型であり、その影響力は江戸時代を通じて絶大であった。ここであらためて静岡県立美術館蔵の探幽筆「富士山図」(以下、静岡本)〔図1〕の構図を検討してみたい。この絵師の数ある富士図のうち、探幽66歳の寛文7年(1667)の揮毫になる代表的な作品であり、先学によって詳細な研究がなされている。武田恒夫氏は、没骨技法や名所や景物の配布といった観点から、本図にやまと絵の近世化を見ている(注5)。山下善也氏は、画面中のこうしたやまと絵の感覚に近いものに加え、探幽が本図に求めたものは風景スケッチにもとづく「実感の再現」であったとする(注6)。さて、本稿では左右非対称・稜線の長い富士図の成立を考察するという立場から、構図、とりわけ富士の形に注目してみたい。現在の日本平方面から清水港越しに富士を望む。画面左には前景として清見寺が描かれ、右側には三保松原の砂嘴がのびている。画面の左側に寄った富士は淡墨の外隈によってあらわされるが、向かって左の稜線は山頂のほど近くで雲気に遮られている。他方、右の稜線は次第になだらかになりながら画面右端付近まで延び広がり、三保松原の上方ではこれと並行となって呼応している。富士の山容は、左右非対称で片方の稜線の長い「へ」の字型――ここでは仮に「偏稜線型」と呼ぶこととする――をしている。室町時代の仲安真康「富嶽図」(根津美術館)や狩野元信「富士参詣曼荼羅図」性を強調した構図と比較すると、すらりと長く美しい富士の稜線がひときわ印象的である。本図の構図に関しては、伝雪舟「富士清見寺図」(永青文庫)〔図2〕からの影響が指摘されている(注7)。本図は雪舟原画でなく模本と考えられているが、すくなくとも17世紀には細川家に所蔵されていたことは確実視される。探幽の弟安信に同寸の
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