―269―模本(茨城県立歴史館)があり、島津家に仕えた木村探元には伝雪舟画を拡大した大作がある。探元は薩摩の産で、江戸に出て探幽の嗣子探信に学び探幽に私淑した。また探元の著作『三曉庵雜誌』にも、細川家蔵の雪舟筆富士の絵の記事が載る。このように探幽周辺において「富士清見寺図」はよく知られた作品であった。したがって、探幽本人も本図を直接目にした可能性はきわめて高い。次に静岡本と伝雪舟画の構図を比較してみよう。伝雪舟画でも画面左に清見寺、右に三保松原を配し、富士は左寄りに聳える。すなわち、探幽は基本的な構図を伝雪舟画に拠っていることは疑い得ない。しかし、本稿で問題としている偏稜線型の富士についてはどうであろうか。確かに左右の稜線では右側の方がやや長めではあるが、その裾野は愛鷹山の連山に遮られて開放的な伸びやかさを感じさせない。静岡本では右の稜線と三保松原の呼応関係が、画面の横方向の広がりをあらわしているのである。偏稜線型の富士に関しては、伝雪舟画と異なるイメージソースを想定できるのではないか。2.狩野山雪「富士三保松原図屏風」と静岡本伝雪舟画を受容し、自らの画作に昇華・変容させた画家として、京狩野二代目の狩野山雪(1590−1651)をここで取り上げる。山雪には「富士三保松原図屏風」の遺例が2点、ほかに京狩野家文書の中の記述とその下絵に1点が知られており(注8)、絵師のこの画題に対する関心の高さを推測させる。上記3点のうちで最も初期の作品と目されるのは静岡県立美術館所蔵の屏風〔図3〕である(注9)。左隻には清見寺と富士山、右隻には愛鷹山と三保松原という構成は、伝雪舟画のそれを踏襲している。山雪の子永納が父の草稿をもとに著した『本朝画史』の雪舟の項には、先の伝雪舟画の賛文が採録されており、山雪自身がこの絵あるいはその模本を見知っていたとも想像されるのである。本図と伝雪舟画を比較したとき、富士の右の稜線が左隻右端まで延長されたことが注目される。つまり、偏稜線型富士図の探幽に先行する作例ということができるのである。室町時代までの富士図からすれば、極端なまでといってよいほどに長く引き延ばされた稜線は、どこからきたものであろうか。論者は、伝雪舟画と屏風との画面の縦横比の違いがあるものと考える。伝雪舟画の縦横比がおよそ1:2.4であるのに対して、本図のそれは1:4.7ほどと、比率にして横が2倍ほど長くなっている。縦横比の変化の結果、また一双屏風という画面形式上、清見寺・富士山・愛鷹山・三保松原という4つの主要モチーフを左右隻に振り分ける
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