―270―こととなった。横長構図という画面からの要請と山雪の造形感覚が相俟って、偏稜線型富士がここに誕生したと考えるものである。ところで、本図の款記には「山雪始圖之」とある。この意味するところは、字義通り山雪の一連の富士三保松原図のうちで最初に制作したものと考えられるほかに、特別な意図がこめられているとも解釈できる。星野鈴氏は、室町水墨画の画題を復活させたこととの関係を示唆している(注10)。山下善也氏は、本図に描かれる具体的な描写と、山雪の画作における学究的態度から、「単に粉本に頼って描いたのではなく、実際の姿に基づいて描いた新図様であるという意識が込められている」とする(注11)。さて論者は本稿の主旨である富士の形という点を鑑み、山雪が偏稜線型富士図を創始したことをもってこの特別な款記を揮毫したと想像するものである。ここまで先行研究を参照しつつ伝雪舟画から山雪・探幽それぞれへの影響を考察してきた。次に、同じ時代を京都と江戸という異なる土地に生きた二人の画家、山雪と探幽を直接比較してみたい。まず、山雪「富士三保松原図屏風」〔図3〕左隻と探幽「富士山図」〔図1〕の構図が、あまりに近似していることに驚かされる。特に富士は偏稜線型であることや、その位置までもがほぼ一致するのである。大きな相違点といえば、山雪画では右隻にあった三保松原の砂嘴が探幽画の右端に写されているのに対して、同じく右隻の愛鷹連山は省略されていることである。探幽が後者を描かなかったのは、心地よくのびる稜線を遮断したくなかったためと思われる。前者に関しては、三保松原がこの名所を構成する表象のひとつであることが理由として挙げられる。しかし、このモチーフが画面に占める大きさの割合は、山雪画よりはるかに小さく、むしろ伝雪舟画〔図2〕に近い。また、画面左端中央から斜辺を描く清見寺付近のボリュームについても同様のことがいえるだろう。さらに、探幽画ではこの一角を構成する個々の要素が山容と平行に配置されるのに対して、山雪画では街道がこれと垂直に交差して流れを止めている。伝雪舟画の方が山と呼応するリズムを感じさせる。以上の検討から、静岡本狩野探幽「富士山図」は、狩野山雪「富士三保松原図屏風」左隻の構図および偏稜線型の富士と、伝雪舟「富士清見寺図」におけるモチーフ相互のバランスや配置の感覚とが融合したところに基本的な構図があると考える(注12)。そしてその上に、稜線の長さを効果的に表現するためにあえて愛鷹山を省略し、三保松原との並行関係を築いたのは、さらに横方向へと広がりをもたせようとする探幽の工夫だったのではないだろうか。
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