鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―271―探幽は様々な画面形式で富士図を描いたが、屏風も数点知られている。このうち山楽画との比較で、フリア美術館所蔵の「富士・松原図」〔図4〕が興味深い。制作年は静岡本の2年後である寛文9年(1669)、探幽68歳の筆である。モチーフの選択と配置については山雪画と共通するが、静岡本の造形的特徴もいくつか見ることができる。清見寺付近の描写は斜線の構図になっているし、静岡本に描かれていた月も右隻上方に移動している。愛鷹山の存在が希薄になり、三保松原が右隻を横断線ばかりに延びているのは、稜線から砂嘴への連続によって横方向の広がりを強調するためであろう。つまり本図は、屏風である山雪画が掛幅の静岡本に変換され、探幽の造形意識を取り込んで屏風に再変換されたものと位置づけられるのである。3.展望:式部輝忠「富士八景図」の構図本稿では、伝雪舟画以外の室町時代絵画について述べるところが少なかった。今後の研究の展望を兼ねて、わずかながら式部輝忠「富士八景図」(静岡県立美術館)〔図5〕に触れておきたい。本作品は全八幅からなる富士の連作であり、上部に臨済宗黄檗派の禅僧常庵龍崇の賛が記される(注13)。富士を八景にわけて描くという形式が、寛文5年(1665)の探幽にも見られる(注14)。式部の富士図はパターン化され平板であるが、寛文11年(1671)の探幽「四季富士図」はむしろ式部のような室町時代の先例にならった要素が強い(注15)。本作品に記される題辞は、多少の相違はあるが『続群書類従』所収の『清渓稿』に付される『蘿山集』にも収録される(注16)。林羅山(1583−1657)・鵞峰(1618−80)親子は探幽と親しかったことは周知の通りである。このように状況証拠のみを見てくると、式部画と探幽との接点の可能性について考えてみたくもなるが、現段階では慎重に進めたい。ただし、式部画のうちに富士を画面中央に配さず、左右非対称で左右の稜線の長さが違う山容があることは注目しておきたい。おわりに本稿では、狩野探幽「富士山図」(静岡県立美術館)の構図と偏稜線型の富士の成立について、古画および同時代絵画の学習と探幽の創意という点から論述してきた。しかし、静岡本を構成するもうひとつの要素として風景スケッチを忘れることはできない。御用絵師として京都・江戸を生涯にわたって行き来した探幽。季節・時間・天候・道程とともに変幻する富士の姿を、何度もその目に焼き付けあるいは携帯の小画

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