注『日本の心 富士の美展』図録 名古屋市博物館・サントリーミュージアム[天保山]・東武 中野好夫・成瀬不二雄『百富士』毎日新聞社、1982年■竹谷靱負『富士山の精神史―なぜ富士山を三峰に描くのか―』青山社、1998年■山下善也「探幽筆富士山図における学習と工夫」『美術史』136、1994年■武田恒夫『狩野探幽』〈日本美術絵画全集15〉集英社、1978年の本文及び作品解説■(注4)参照■山下善也「江戸時代における伝雪舟《富士三保清見寺図》の受容と変容」『細川コレクショ■『特別展 狩野山雪』展図録 大和文華館、1986年山下善也「静岡県蔵 狩野山雪筆「富士三保松原図屏風」六曲一双について―表現内容を中心―272―巻などに写したに違いない。就中、寛文2年(1662)の「富嶽図巻」〔図6〕は上洛下向の途上ではなく、富士への取材旅行そのものであった可能性が高いと指摘されている(注17)。掛幅の閉ざされた画面空間ではないが、ここには偏稜線型の富士が確認される。こうした風景スケッチから本画へとモチーフの形態をただちに結びつけることは慎むべきであるが、やはり伝統的図様に実景体験の記憶があったればこそ静岡本が誕生したと考えたい(注18)。桑山玉洲の記すように、探幽の富士図は江戸時代を通じて富士図の典型となった。それは日本一高く日本一裾野の広い山を、最も美しい姿であらわす偏稜線型の富士である。探幽と同時代人で、おそらくは交流もあった学僧・書画家の松花堂昭乗(1584−1639)は、モチーフを省略した探幽風の画面の中に富士山を偏稜線型で描いた(注19)。実際には富士の麗姿を仰がなかったであろう円山応挙も、晩年の寛政4年(1792)に偏稜線型の「富士図」(三井記念美術館)を描いている。最も人口に膾炙しているといえる富士図といえば、飾北斎『冨嶽三十六景』シリーズ中の「凱風快晴」――むしろ「赤富士」の通称がより親しまれているだろう――である。見飽きることのないこの富士図の傑作を思い浮かべるとき、画面上部へと突き抜けんとするかのごとき富士の威容もさりながら、印象的なのは左へと長く伸びる稜線の美しさであった。美術館、1998年成瀬不二雄『日本絵画の風景表現―原始から幕末まで―』中央公論美術出版、1998年成瀬不二雄『富士山の絵画史』中央公論美術出版、2005年山下善也「狩野探幽筆 富士山図」『国華』1202、1996年武田恒夫『狩野派障屏画の研究―和様化をめぐって』吉川弘文館、2002ン・日本画の精華』展図録 静岡県立美術館、1992年
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