―277―題を呼ぶこととなった。翌38年(1963)10月に同メンバーの柵山龍司、村上善男、藤沢多巳夫、橋本正、杉村英一、大宮政郎、田村富男に村山暢男、瀬川正男、浅利篤を加えた抽象系の作家集団十名による「今日の美術展」、12月には藤形一男を加えた十一名による「ミクロ展」が開かれ、この時期に「集団N39(正式名称は集団N39°40’)」というグループ名が定められた。集団N39の主な活動を年譜でまとめると以下のようになる(注1)。昭和37年(1962)4月8日 1人の詩人、8人の画家、1人の芸術家、舞踊家による盛岡4月8日の日曜日(会場:自治昭和38年(1963)10月13−15日昭和38年(1963)12月1−15日昭和40年(1965)1月10−15日昭和40年(1965)8月27−30日昭和40年(1965)11月13日昭和40年(1965)12月15日−1月15日 65−66冬のミクロ展(盛岡画廊)昭和41年(1966)5月1−8日昭和42年(1967)11月23−27日昭和43年(1968)12月12−16日昭和44年(1969)11月30日集団N39は上記の展覧会やイベントのほかに中原佑介など評論家を招き、理論的な研究会も開催するなど40年(1965)頃までは活発な活動を展開したが、やがてグループとしての運動が停滞してきたことから集団の形成に異議を呈するようになり、昭和44年(1969)12月に解散することとなる。集団N39の機関紙に掲載された「各自が独立するひとつの精神として生きているいま/の激痛をこめた解放への転換は「芸術」の偏狭な意識を一掃するだろう」という言葉からは、彼らの目的は旧套的な芸術(美術)の概念から脱し、同時代に相応しい芸術のあり方を追求することと理解できるが、さらに付け加えるならば、プロの美術家集団の使命として、彼らが追求する芸術のあり方を地域に啓蒙していくこと、そして盛岡という一地域から自分たちの成果を中央へ、さらには世界へ向けて発信していくという目標もあったことだろう。自らの活動をその土地に結びつける意識は盛岡の会館)今日の美術展(自治会館)ミクロ展(中村画廊)今日の美術展(盛岡画廊)今日の美術展−4(川徳画廊)フェスティバル’65(教育会館)集団N39展(エフワン画廊)集団N39展(盛岡現代画廊)グループN39展(エフワン画廊)研究集会をもって解散
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