鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―278―緯度から採ったグループ名から感じられ、世界を見据えたまなざしは、昭和31年に東京・高島屋で開催された「世界・今日の美術展」がほぼそのまま集団N39の展覧会タイトルになっていることからうかがえる。また、「4月8日」のイベントや「フェスティバル’65」で行われた「戦後美術20年」のパロディなど、一般の人々に対するデモンストレーションを意識的に行っていることは、プロフェッショナルの美術家としての矜持を示していると考えられる。さて、集団N39はその活動期間が村上善男の盛岡市立高等学校赴任期間(昭和36年(1961)3月−33年(1968)3月)と彼が二科展への出品をやめた時期にほぼ重なっていること、彼が集団N39の命名者であること、中央の評論家との人脈などから考えて、実質的なグループの推進役は村上であったと考えるのが妥当だろう。ただし、二科展や個展を主な発表の場としてきた村上にとって、このグループを成立させるにあたって目的と熱意を分かち合うことのできる地元美術家たちの存在は不可欠であった。また、前述の「4月8日」の開催を伝える記事で「このショーを見た岩大教授深沢省三氏は『若い人たちの、なにかやろうとする気概がにじみ出て、ショーとしてはりっぱなものだ。それに踊りが会場にマッチしていて、非常に感じがいい。作品だけでも、二、三日展示してもらえたらよかったと思う』と語っていたが、初めての試みとしては一般にも好評で、成功だった」と評されていることから(注2)、従来に無い斬新な試みだったにも係わらず、美術関係者をはじめ観客の側にもこうしたイベントを受け入れる素地がある程度できていたことが推測できる。そこで、次に集団N39結成以前の時期に視点を移し、この特異なグループの誕生に係わりを持つと思われる動向をいくつかたどってみることとする。昭和40年(1965)前後までの前衛的な動向冒頭に記した細野金三のリストによれば、戦後直後から昭和40年(1965)頃までの間に岩手各地で開催されたグループ展は少なくとも三十二グループ以上による計二八〇回余りを数える。ただし細野の分類では数名程度のグループ展から大規模な芸術祭までが「地方別団体・グループ展」として扱われているほか、展覧会の名称から同好会的レベルと推察されるものもあり、各グループの実態については依然調査を要すべき部分が多い。注目できるグループとしてはまず「彩虹社美術協会」と「集団R(またはグループR)」が挙げられる。昭和24年(1949)10月に発足した前者は細野自身が創立に携わった団体であり、その活動は現在まで続いている。「国鉄盛岡工場の同好者の集まり」

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