―279―(注3)から始まった同会は、モダンアート系を中心に美術文化、行動美術、二紀会会員などの画家が加わって構成されていた。この会には抽象絵画への志向を持つ画家が多く含まれ、『彩虹社美術協会40年史』(彩虹社美術協会、昭和63年(1988))の年譜によれば、県内で初めて抽象絵画が発表されたのは、25年(1951)の彩虹社第二回展においてのこととされている。また、彩紅社は山形、宮城、青森など近県の美術家たちと共同で展覧会を開いたり(昭和30年(1955)、31年(1956))、当事顕著になってきた展覧会場の極端な減少を逆手に取って「芸術センター建設促進」をテーマに掲げ、岩手公園で野外展を開催して話題を呼ぶ(34年(1959))など、派手さや過激さは見られないものの、県内の美術界に新傾向をもたらすとともに、盛岡から県外へと発信する活発なグループ活動のあり方には、次の世代へ影響する面も少なくなかったと思われる。集団Rは斎藤忠誠、高見泰蔵、富田喜平司など、こちらもモダンアート系の画家を主体としたグループである。その前身は一戸町(現二戸市)で昭和27年(1952)から31年(1956)にかけて展覧会を開催した「RO会」であり、昭和32年(1957)から発表の場を盛岡に移し、名称を変更している。RO会を結成した早い段階で一度盛岡での展覧会を行っているが、「新進の油絵、工芸、彫刻の作家たちの団体」とされながらも出品作品には竹細工、高蒔絵帯輪などが挙げられており(注4)、この時期の会の方向性については不明な部分も多い。より抽象的な志向へ変化したと思われるのは集団Rへの名称変更時と思われ、昭和32年12月に盛岡市肴町のツキウ洋品店2階で開かれた第一回集団Rの展覧会に対しては、森口多里が「一番新しい傾向を求めている」「アンフォルメルが現れている」と評しており(注5)、二年後の第三回展では柵山龍司の参加に加え、細野金三と当事二科展に出品していた村上善男も特別出品している。集団Rとしての活動はこの第三回展で終了していると見られ、その理由については定かではないが、メンバーの斎藤忠誠が昭和32年に美術団体「エコール・ド・エヌ」を設立したことと何らかの係わりを持つことが想像される。また、集団N39メンバーである大宮政郎、柵山龍司、橋本正が参加した抽象系の画家による「10人展」(昭和32年8月)と「8人展」(昭和33年(1958)3月)も注目すべき展覧会である。この二つの展覧会の出品作家はほぼ同じであり、「8人展」の合評会記事にメンバーによる興味深い発言を指摘できる。彼らによれば、前年の「10人展」に比べて今回の「8人展」は全体として共通の方向性を目指すようになっている。それ自体は悪くはないが、そのことによって互いの作品が似通ってしまう傾向があり、保守的になっている。もっと実験・冒険をやってもよい。これに引き続きある作家が
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