鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―19―1.子供時代、少年時代(1883−1898):23点クレーは1911年から自筆作品総目録をつけ始めた。その際、自身の子供時代の絵を「作品」として新たに評価し直し、現在およそ120点ほど残っている子供・少年時代の絵から幼年期の18点だけを選んで、それを厚紙の台紙に貼付け作品総目録に登録した。従って、この時期の「裏絵」のほとんどは直に観察できる利点がある。しかし、それは概ね、失敗や破棄のために支持体を再利用したものか、完成作のための習作・スケッチ・下絵という性格を具えている。また父親ハンス・クレーの証明書や仕事の書類を支持体としたものも残されている(注5)。いずれにせよ、この時期の表裏の絵は形態や意味の上で有機的に関連してはいない。2.ミュンヘンでの修業、イタリア旅行、ベルンでの模索(1899−1905):16点ミュンヘンでの画家修業時代とそれに引き続くイタリア旅行を終え、クレーは故郷ベルンに戻る。そこで独自の画風を作り上げるべく新たな技法を模索し、写真機を使った実験からガラス絵の技法を発展させた(注6)。興味深いことに、この時期に制作されたガラス絵と銅版画の下絵6点の裏面に赤いチョークが薄く塗られている(注7)。なぜそのような処置を施したのか、その理由は明らかではないが、このように薄い色を塗ることで、ニードルで刻まれた輪郭線がはっきりと浮かび上がる。おそらく画家は、左右反転した下絵の代わりに、これら赤チョークの裏面の像を眺め線の効果を確かめながら、最終作品を制作したのではないかと推測される。ガラス絵や銅版画の制作を通じ、クレーはネガとポジ、明と暗の逆転を探求した。本格的な絵画を制作することの前段階に「反転」の意識があったことは間違いないだろう。しかしこの段階では、表と裏の絵を形態や意味の上で相互に関連させるまでには至っていなかった。3.「青騎士」サークルとの交流、チュニス旅行(1906−1914):104点クレーは、1906年の結婚を機にベルンからミュンヘンへ移住する。年間の作品数が100点、200点と格段に増えるのに比例して、両面に描かれた作品も著しく増えていく。この時期になってようやく、「描き損じたもの」や「習作」や「手直し」に混じって(注8)、作品の裏と表が相互に関連する「両面作品」と呼べるものが出現する。そのような「両面作品」の素描では、紙の透ける性質を利用し、透けて見える裏面の絵を形態や意味の上で表側の絵と関連させていることが確認されるし、制作過程の様々な段階を意図的に見せてもいる。またこの時期には、自作のリトグラフや版画の試し刷

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