―280―『VOU』のメンバー十一人による「フォト・ポエム」の展示と「音楽詩」の発表が行次のように述べるのである。「しかし新しい冒険をやるにも方法とか理論がなくては…。そういう方法とか素材は共同で研究するのも一つの方法ではなかろうか−。」(注6)集団N39で理論面での議論や研究会が盛んに行われた背景には、前衛志向のある画家たちがこうした問題意識を抱えて模索していた状況があったといえるだろう。細野のリストからは漏れているが、昭和37年(1962)6月に喫茶店「モンタン」で開かれたVOU形象展も重要な展覧会として特筆に値する。モダニズムの詩人として知られる北園克衛が主宰したVOUは、詩に限らず「芸術のあらゆるジャンルに拠る作家たちの冒険的な実験を共同保証する」クラブであり、この展覧会では同人誌われ、初めて盛岡を訪れたメンバーの清水俊彦によってモダン・ジャズの紹介や詩と美術をめぐる論議が行われたという(注7)。この展覧会に参加したVOUの高橋昭八郎と伊藤元之は二ヶ月前に行われた「1人の詩人、8人の画家、1人の芸術家、舞踊家による盛岡4月8日の日曜日」のメンバーでもあり、集団N39結成後もしばしばその展覧会に加わっていることから、VOUとの交流が集団N39に少なからぬ影響を与えていることは間違いない。また、VOUとは離れるが、昭和31年(1956)に開催された「アプレ詩と絵の会展」に大宮、柵山、橋本が出品していることからも、集団N39の美術家たちとVOU、そして県内の詩人たちとの関係については今後の検証が不可欠と思われる。県内美術界全般の主要な動向これまで集団N39とその結成以前の前衛的動向について言及してきた。順序としては逆になるが、集団N39に参加した美術家たちが共有した背景としての戦後の県内美術界の状況について最後に少し触れておきたい。重要な事柄として指摘しておきたいのは、戦後の短期間に美術の高等教育体制が確立されたことである。昭和23年(1948)、盛岡に県立美術工芸学校が開校し、絵画彫刻科と工芸科が設置され、日本画・洋画・彫刻・図案・金工・染色・木工・漆工などの実習が行われるようになった。この学校の前身は、戦後間もない時期に県公会堂地下室の一室に開設された岩手美術研究所である。同研究所は22年(1947)8月に岩手美術連盟(注8)が会員のデッサン研究を目的として設置したもので、当時県議会議員となっていた橋本八百二、深沢省三・紅子夫妻、舟越保武など、戦中から戦後にかけて盛岡に疎開していた美術家たちと地元で指導的立場にあった佐々木一郎などが指導に当たったものである。当時の様子は自らもその運営に携わった佐々木の回想に詳
元のページ ../index.html#290