―281―しいが、実質的には会員以外へも幅広く門戸を開いていたと見られ、この研究所で学んだ人々は三百名以上を超えたと言われている。県立美術工芸学校は研究所設立に携わった人々の働きかけにより誕生したもので、前述の美術家たちが主要教授陣となり、初代校長には同じく戦時中盛岡に疎開していた美術評論家の森口多里が就任した。同校は昭和26年(1951)の県立盛岡短期大学発足時に同大学の美術工芸科(三年制)に移行し、同時に大学と高校の二分化が図られたことにより、県立美術工芸高等学校も併せて誕生した。その後、昭和30年(1955)に岩手大学学芸学部に特設美術科が設置されたことに伴い、短大美術工芸科は特設美術科に吸収されて33年(1958)3月に廃止となり、美術工芸高等学校も県立盛岡工業高等学校の工芸科として編入されることとなった(注9)。美術工芸学校から岩手大学特設美術科設置までの約十年間は今日では一貫した流れとして語られているが、実際は美術工芸学校・短期大学美術工芸科の創設が県内美術関係者の功績によるところが多かったことに対し、特設美術科は文部省が全国の国立大学に配置した特別教科教員養成過程のひとつとして開設されたものであったことから、美術関係者の間では短大美術工芸科の廃止は美術教育政策の縮小と理解され、当時の岩手日報紙面も同様の論調で占められた。こうした経緯も含め、昭和22年(1947)から33年(1958)までの美術研究所−県立美術工芸学校−盛岡短大美術工芸科の時期を経た者たちの結束には強さが感じられる。大宮政郎や橋本正は岩手美術研究所に出入りしており、大宮は後に昭和24年(1949)に工芸学校の油絵科に入学。柵山龍司は短大に移行した年に美術工芸科洋画科に入学している。彼ら三人が比較的早くから共に活動を行っていたのもこうした経歴が一因だろう。美術界の状況としていま一つ挙げておきたいのは、県内の美術界を総括する性格の展覧会がいくつか開かれたことである。公募展として最も早いものは昭和22年(1947)の岩手芸術祭美術展、次いで昭和25年(1950)から33年(1958)まで開かれた岩手アンデパンダン、昭和33年(1958)12月の新制美術会第10回記念展覧会などがある。昭和22年(1947)の岩手芸術祭美術展は県と岩手美術連盟の共催で行われ、主催に岩手美術連盟が入っていることから察しがつくように、審査員は美術研究所のメンバーが中心であった。第一回岩手アンデパンダンは岩手日報社と日本美術会岩手支部、新制美術会、岩手工芸協会の共催で開かれたが、新制美術会は昭和24年(1949)に解散した岩手美術連盟の後身であることから、こちらも主催者としては同じような顔ぶれがそろっていたといえる。新制美術会展覧会は会員による展覧会であったが、33年(1958)は創設十周年に際して公募展が行われた。村上善男はアンデパンダン(昭和
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