鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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注集団N39の活動については『いわて近代洋画100年展』図録(いわて近代洋画100年展、平成17年(2005))、『北に澄む−村上善男展』図録(村上善男展実行委員会、平成17年(2005))、『1963−73●盛岡・現代美術の変革期』(ギャラリー彩園子編、平成10年(1998)、私家版。平成8年(1996)に同ギャラリーで開催された「N39」展と「COZMO−8V」展の記録集)等で紹介されている。なお、実際に案内状等で正式名称が用いられているのは、昭和38年(1965)に開催された二回の「今日の美術展」に限られ、以降は「集団N39」と用いられている。■「各界総まくり(洋画)質量とも黄金時代 短大美工科の足跡」岩手日報、昭和36年(1961)―282― 「ショー 四月八日の日曜日 盛岡の前衛グループ公演」岩手日報、昭和37年(1962)4月1030年(1955))、新制美術館記念展(33年(1958)・新制美術会賞受賞)、芸術祭美術展(昭和34年(1959)・芸術祭賞受賞)いずれにも出品経験があり、大宮・柵山も芸術祭賞受賞実績がある。日集団N39に代表される前衛的な動きは、岩手において戦後の新たな美術制度が定着した時期と重なっていることから、権威化した地元の美術界への反発と見なすことが可能であろう。しかし一方、集団N39世代の美術家たちは、彼らより一世代上の美術関係者たちの尽力により岩手の美術界が復興していく光景を目の当たりにし、その恩恵に浴した最初の人々でもあることを考えた場合、彼らの活動には、地元美術界の活性化を導いた旧世代の活躍に応え、その志を引き継ぐ一面も存在していたと思われる。おわりに岩手の戦後美術において集団N39は特別な存在として扱われることが多い。それはこのグループの積極的な活動からすれば当然のことでもあるが、突出した活動ゆえにその周辺部の動きとの関連性についてはほとんど触れられてこなかった。今回はさほど言及されてこなかった小さな活動のいくつかに着目したことにより、集団N39に至るまでの美術界の流れがわずかながらつながりを持って見えてきたと思われる。今後もひき続き各地における動向をひとつひとつ採り上げていくとともに、主要な活動に対する再検証を進めていきたい。なお、今回の調査研究では実質的にデータ整備と事実関係の確認・整合作業に予測以上の時間を割くこととなり、当初予定していた現存作家へのインタビューがほとんど果たせずに終わってしまった。今後可能な限り早急に多くの作家との接触を試み、新たな発見につながる証言を可能な限り収集したい。

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