―20―「破棄」は一義的に確定できない。り、他の作者による銅版画の紙の裏面を再利用することが本格化する(注9)。とりわけ画家仲間のアウグスト・マッケとルイ・モワイエと連れ立った1914年のチュニス旅行には、簡便さと画材の節約という理由から銅版画の紙を持参し、それを支持体に水彩を描いてもいる(注10)。制作過程の段階を垣間見せる早い時期の作例は、1912年の鉛筆素描《ライオンの頭》〔図1〕とその裏面にある「男の頭」〔図2〕である。裏面の男の鼻や口元から顎髭にかけての線がそのまま、表のライオンの堂々とした風貌に転用されているのか、あるいはその逆なのかは確定できない。しかし画家が最終的に「作品」と決めたのは、クレー作品に特徴的な「観相学的」な描写、つまり人間のような骨格や容貌をしたライオンであった以上、90度向きを変えた裏面の男の形態を展開させたと考えるのが妥当であろう。いずれにせよ両面に描かれた紙作品からは思考と制作の連続性が明瞭に看取される。さて、裏面にある作品を「描き損じ」や「破棄」とクレーが明示したのもこの時期の特徴である。1908年に制作された作品《窓辺のアスター》、《子供の肖像》、《この英雄も一度は死ぬ運命である》の裏面には、それぞれ「ungultig」(無効)という書き込みとともに、×印をつけて破棄した「自画像」〔図3〕、「息子フェリックス・クレーの肖像」(註11)、ベルンの友人ハンス・ブレッシュとの共同作品『模範市民』のスケッチが描かれている(注12)。これら3点の裏絵の他にも、単に×印をつけて破棄を明確にしたものはこの時期の作品に限って散見される。《窓辺のアスター》の裏面の「自画像」について言うなら、確かに、それが描かれた時点では単純に破棄されたものだったかもしれない(注13)。だが、ナチスの文化政策により「退廃」の烙印を捺された1933年の作品《リストから抹消》〔図4〕の自画像に×印が大きく描き込まれたとき、1908年のこの自画像もまた、遡って全作品のなかで看過ごし得ぬ位置を占めるようになったとも考えられる(注14)。中途・未完で放置されたものは、あくまで「とりあえず」放置してあるのであり、クレーの場合、それらは、あり得るかもしれない召命を待機している状態にあると捉えるべきではないだろうか。とりわけ紙作品の裏面に見られる絵は、ここで打ち止めなのか、あるいは、まだある方向に向かう前の一時停止なのか、その差が非常に見極めがたいために、どちらが「表の絵」でどちらが「裏に隠された絵」なのか、その判断を留保しなくてはいけない作例として、クレーが自筆作品総目録に登録しなかった1910−1914年の線描画5点と(注15)、その“裏面”にある息子フェリックスの鉛筆素描と水彩画を
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