鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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パブロ・ピカソ《羊を抱く男》―297―――その図像源泉と政治的意味――研 究 者:上智大学 非常勤講師  松 田 健 児序論:《羊を抱く男》とは?1943年、パブロ・ルイス・ピカソは100点以上の準備習作を制作するほどの周到な準備を重ねたのち、彫刻《羊を抱く男》〔図1〕を完成させる(注1)。この作品はピカソが制作した彫刻のなかでも特異な位置を占めている。1910年代のコラージュやアッサンブラージュ、1920−30年代の彫刻作品と比較すれば、問題の作品があまりにも平明なのが一目瞭然となる。さすがにリアリズムと呼ぶことは躊躇われるものの、これが羊を抱く男を表現していることに疑問の余地はない。まるで「わかり易さ」をなによりも優先させたかのように、《羊を抱く男》は簡潔で無駄がない。ほぼ等身大の彫像は両腕に羊を抱き、わずかに歩を進めるように大地に屹立する男性を表し、それ以外のものすべてが排除されている。その表現はまるで本質的なものだけに切り詰めようとするかのように、男性の衣服はもちろん、頭髪さえも省略されている。従来の解釈とその問題点《羊を抱く男》はこれまで多様な解釈がなされてきたが(注2)、基本的にはキリスト教の伝統的な「よき羊飼い」の図像と結び付けられ、戦争による破壊活動と対置される人間愛の象徴と解釈されている(注3)。しかし、そうした解釈は根拠が曖昧であるという問題点も指摘されている。例えばアルベール・エルゼンは「ピカソの人間性への愛の象徴(注4)」と解釈するペンローズも「ピカソは牧歌的な彫像を戦争の脅威と対置させようとした(注5)」とするヴェルナール・シュピースも根拠に乏しいと批判する(注6)。「人間性への愛」は40年ほど遡る青の時代以降、ピカソ芸術にほとんど見出すことができず、愛に満ちた楽観主義は第二次大戦中に制作された絵画や素描にまったく反映されていないというのがその論拠である。その結論や論拠には議論の余地があるものの、従来の解釈と制作前後の歴史的文脈との結びつきが脆弱であることを的確に指摘している点で傾聴に値する。つまり、信仰心の薄いピカソが、なぜ戦時中にわざわざキリスト教の図像を取り上げる必要があったのかという問いに対して、説得力のある解釈がなされてこなかったのだ。「よき羊飼い」の図像と結びつける解釈が不十分なものであることは、作品の制作

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