―298―「よき羊飼い」の図像をそのまま踏襲するのではなく、どう表現するか悩みながら試過程からも指摘することができる。《羊を抱く男》の出発点となった版画《パリ、1942年7月14日》〔図2〕に描かれているのは5人の男女が画面右側にいる堂々たる男性に捧げ物を捧げる場面である。集団の中央に立つ若い女性が左手に連れた山羊は首を伸ばし、上方に掲げられた花を食べようとしている。また、若い女性の左隣には老婆がまるで赤子を抱え持つように子羊を抱いている。こうしたモティーフが《羊を抱く男》の出発点となっているのは明白なのだが、この画面を全体として眺めた場合、純粋さや希望の象徴である鳩、キリストの肉としてのパン、聖杯のように掲げられる花などが描かれており、キリスト教のシンボルと結びつけて考える(注7)のは妥当であるだろう。しかし、この版画が《羊を抱く男》と「よき羊飼い」の図像の間接的な結びつきを示しているにしても、両者が直接的に繋がっているわけではない。この版画が制作された翌日から《羊を抱く男》の準備習作が次々と描かれていくのだが、まず老婆が男性に変えられ、その男性も習作を重ねるうちに若々しい青年から髭を生やした壮齢の男性へと変化していく〔図3〕。おとなしく両腕に抱かれていた羊も恐怖におののき男性の腕から逃れるように首を伸ばすようになっていく〔図4〕。ピカソは伝統的な行錯誤を繰り返しているのだ。また、《羊を抱く男》が公の場に設置されたときの状況を検討していくと、従来の解釈には矛盾が生じる。制作から数年経った1950年、ピカソはブロンズに鋳造した《羊を抱く男》をヴァローリスの町に寄贈した。このとき、フランス共産党はそれがまるで自らの手柄であるかのように除幕式に参列しているのである(注8)。共産党がキリスト教のシンボルを喧伝の材料とするだろうか。以上のような問題点を踏まえ、やはりわれわれは《羊を抱く男》を当時のピカソとその芸術の歴史的文脈のなかに置いて再検討してみる必要があるだろう。制作の背景1930年代前半からピカソは公私ともに「人生最悪の」時期を過ごし、そうした摩擦から生じるエネルギーは代表作のひとつ《ゲルニカ》〔図5〕へと結実する。しかし、暴力と緊張に満ちた悲劇的状況はそこで終結するわけではない。1939年1月13日には母マリア・ピカソ・イ・ロペスが82歳で息をひきとり、同年7月22日には画商ヴォラールが自動車事故で不慮の死を遂げる。また、スペイン内戦終結以降は共和国側で戦った義理の弟ハビエル・ビラトの安否を気遣わなければならなかった。
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