―299―時間と共に暗雲は厚みを増していき、同年9月初頭にはフランスとイギリスがドイツに対して宣戦布告する。開戦当初、ピカソはロワイアンに難を逃れようとしたが、結局は翌年8月パリに戻ってグラン・ゾーギュスタン街のアトリエに落ち着いた。合衆国やメキシコから亡命受け入れの申し出があったもののピカソはフランスに留まり続けた。この理由を、ピカソは自らの意思と怠惰のためである語っているが(注9)、理由はどうであれ困難な状況に置かれていたことに変わりはない。絵筆をもってフランコ軍に対抗し反ファシズムを公言していたピカソが、パリを占領したナチス・ドイツと対立する姿勢を見せたのは当然の成り行きだった。ナチス・ドイツとスペインのフランコ政権は軍事行動、ユダヤ人に対する態度、芸術政策と様々な点で異なるものの、「退廃芸術」として抑圧されるピカソにとって両者が「反動と芸術の死」をもたらすことに変わりはなかった。しかも、共産主義者と非難される一方でナチスと協力しているために身の安全を確保されているという風評も流れた。共産党の機関紙ニュー・マッシズ紙に1944年11月付けで掲載された記事には次のような一節を見いだすことができる。ピカソに関する不吉な噂が流れていた。彼がドイツ軍支配下のパリで優雅な生活をしているというものだ。ゲシュタポに協力し、その代わりに制作の邪魔をされることがないという噂だ。彼はナチスに−彼のサインが入っているが実際には弟子たちに描かせた−贋作を売っているという。ピカソは死んだという別の噂もある。1940年からパリ解放まで、ピカソは神秘と不明瞭に包まれた存在であり続けた(注10)。行動のひとつひとつに細心の注意が必要とされ、ピカソは制作のうえでも私生活でも危険な綱渡りを演じなければならなかった。祖国のこととはいえ、遠い場所での出来事だったスペイン内戦とは異なり、身の危険が直接に降りかかってくる状況のもとで《羊を抱く男》は制作されたのだ。《羊を抱く男》の表現があまりにも平易であり、また一方で多様な解釈を可能とする曖昧さをもっていることは制作された当時の、ピカソが置かれた困難で複雑な状況にその理由を求めることもできるかもしれない。亡命者ピカソとフランコ体制下のスペインここで問題としなければならないのは、従来の解釈ではまるで取り上げられることのなかったピカソとスペインの関係、とりわけ反フランコという政治姿勢であろう。
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