―21―挙げておく。この時期、「青騎士」の芸術家たちは「根源的なものへの回帰」を目指し、「子供の自然な表現欲求」を創造力の手本として制作に取り入れていた(注16)。クレーの芸術プログラム「目指すべきものは根源!」は(注17)、彼らとの交流によって文化イデオロギーの点から補強されただけではなく、クレーにとって最も身近な子供、すなわち1907年に息子フェリックスが誕生したことで明確に意識化され(注18)、さらに、親子の「共同作業」を通じ実際の作品にも結実した。クレーは上記の線描画をいずれも台紙に貼らずに保存しておき、同時期あるいは数年の後にストックから取り出してフェリックスに与えている。その中の1点、1910年頃に制作されたクレーの線描画の“裏面”にある、1916年の日付が書き込まれた9歳のフェリックの水彩画〔図5〕を見てみよう。有機的な形態は色面として処理され、それが組み合わされ全体のコンポジションが作られており、まるで色鮮やかな抽象画のようである。クレー自身はこのように色を自在に扱い色面で構成することには大変慎重で、1910年の時点で彼は専ら線描家であった。クレーはフェリックスの画才を高く評価しており(注19)、画家の意識のなかでは、フェリックスの色鮮やかな抽象画こそが表の絵で、6年前の自分のスケッチは、過去に属するものとして「裏側へ回されるべきもの」と考えられていたのではないだろうか。それを裏付ける興味深い同時代の証言が残されている。ミュンヘン時代に懇意にしていた画家のローゼンベルクはクレーに刺繍のデザインを依頼したが、彼が受け取ったものは「力強さとインパクト」で勝るフェリックスの絵であった。フェリックスの「力強い色彩が画面の端までしっかりと塗られた抽象的な絵」に感激したローゼンベルクはたまたまその紙を裏返してみると、そこには、クレーが兵役時代によく描いた塹壕風景の線描画があったということだ(注20)。このエピソードから、現在確認される5点以外にもクレー親子が紙の両面を使って描いた作品は他にもあったことが窺える(注21)。父は「殺伐とした戦争主題」つまり自分が体験した過去の出来事を裏側へ持っていき、息子はその“表側”に「抽象的な色のシンフォニー」を新たに描く。しかしそれは単なる過去の清算ではなく、『日記』のなかの有名な一節を借りるならば、子供という他者を媒介とし「両面作品」というかたちで試みられた「思い出を伴う抽象」なのだ、と言うこともできるだろう(注22)。4.第一次大戦、戦後、キャリア形成期(1914−1920):78点1914年に第一次世界大戦が勃発し、クレーは1916年から1918年まで兵役につく。そのため絵具や画材の調達は困難になったが、彼は軍隊生活と芸術家の活動を両立させ
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