―300―内戦直後のスペインではドイツやイタリアに倣って前衛芸術が否定され、とくにキュビスムは現代美術の統一性に断絶を引き起こし、芸術の国家的な特徴を抹殺する国際的ユダヤ精神の産物である「非人間化された芸術」だという理由で弾劾された。(注11)偉大なるスペイン絵画の伝統を復興させようとする声が高まってくると、既に1910年代からその萌芽をみせていたピカソ否定論が支配的な意見として定着し、「ピカソについて新聞紙上にかかれることはほとんどなく、あるとしても非難するため」(注12)という状況が生まれる。これに対して、1944年にメキシコ・シティで行われたピカソ展(注13)や1946年にプラハで行われた「共和国スペインの美術、エコール・ド・パリのスペイン人芸術家たち」展(注14)を筆頭として、共和国派亡命者たちはフランコ政権に対抗する文化活動をスペイン国外で展開した。こうした活動の中心にピカソがいたことは、当然ながらピカソ本人の画業にも反映されている。1937年1月に描かれた《スペイン内戦に触発された女性像》〔図6〕では「聖母の守護者であるモーロ人兵士に1ドゥーロを投げるキリスト教徒の尻をもつ女伯爵の肖像」と書き込み、フランコ政権の主翼を担ったアフリカ部隊や教会勢力を痛烈に非難した。また、自らのスペイン人としてのアイデンティティを主張するかのように《ゲルニカ》では闘牛を、1945年の《礼拝堂》〔図7〕ではゴヤの版画「戦争の惨禍」を下敷きにしている。しかも、1947年に描かれた《フランスのために命を落としたスペイン人へのオマージュ》〔図8〕では第二次大戦中、ナチス・ドイツに対抗するレジスタンスに参加し命を落としたスペイン人亡命者たちにオマージュを捧げてさえいる。これらの作品は平和を希求し、ファシズムに反対するというピカソの姿勢が、具体的にはスペイン内戦や反フランコという立場に起源をもち、そうした姿勢の根幹をなし続けていたことを如実に示している。とするならば、《羊を抱く男》は反ファシズムという広い文脈ではなく、反フランコという、より限定された流れのなかに置くこともできるのではないだろうか。問題の彫刻をそうした文脈のなかに置いて関連資料を渉猟した結果、スペインで発行された新聞記事のなかに彫刻の着想源になったと推測される写真を見いだすことができた。内戦中、共和国側で発行されたABC紙に《羊を抱く男》そのままの写真が掲載されていたのである。1936年7月22日付の同紙には共和国側の兵士が脇に羊を抱き、カメラに向かって微笑む写真〔図9〕が掲載されている(注15)。また、同年9月23日付の同紙には羊を両腕に抱いた写真〔図10〕が掲載された(注16)。こうした写真やそこに附された文章からは、「フランコ軍がもたらす破壊活動から弱者を保護する
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