―309―(『大正新修大蔵経図像』第7巻)中の、水天を取り巻く波涛にも見られることである。この十天形像は、空海請来と伝えられ、醍醐寺所蔵の同図巻は、建暦3年(1213)書写の奥書を有していることから、9世紀の大陸ですでに用いられていたことも否定で鬼目部に重なり、寸詰まりな描写である。緑青を塗った羂索には、先端に環を付け、反対側の先端を通す。通常は先端に独鈷を付けるものが多いが、本図では何も付していない。鮮やかな朱を施した裳をみると、表裏の輪郭や衣褶線が区別できない単調な太い線描は、百橋明穂氏(注4)が弘安(1278〜88)とするフリーア美術館所蔵長賀筆矜迦羅・制多迦二童子像や十三世紀第四四半期の恵光院所蔵不動明王二童子像に類例を見出せる。裳には、一見伝統的な団花文を施しているようだが、実際には輪宝風の文様である。金泥で描いた文様の中心には蓮華文を置き、その周囲に花文を、さらに連珠文を廻らし全体を円で囲み、外周に鋒をつけ、裳を華やかに装飾している。次に両脇侍に眼を移すと、矜迦羅童子は、右足を少し前に出し、腰をかがめ、両手を合掌させ、中尊の様子を窺うような表情である。肉身には白と朱を混じた朱具を施し、手の甲などのふくらみのある部分には薄く朱の隈を施す。条帛の表は鉛丹の地に金泥で蔓草文とし縁には群青を塗り、一方腰衣の表は緑青を用いる。朱地の裳には、中心に蓮華を置き、その周りに鋒を廻らし輪宝風の文様としている。一方、制多迦童子の裳には、蓮華の代わりに輻をつけている。このように輪宝風の文様も三者三様だが、中尊に比べて二童子では文様も小さいだけあって簡略な表現である。制多迦童子は、右足を少し前に出し、腰をかがめ、右手に金剛棒、左手に三鈷杵を握った両腕を交差させ、身体は斜め右を向くが顔はぐいと中尊に向け、何事かに驚いたように、中尊の動向を伺う。身色は朱を施した赤肉身である。肩衣の表には緑青、腰衣の表には群青を塗る。二童子の腰衣には緑色と青色を、裳には赤色と橙色をというように、画面の左右で同系統の彩色による色合いの調和をとっていて好もしい。荒れ狂う大海原には、薄茶色を施し、波の谷部分には白群を塗る。波浪の線描には、平行線的に重なる曲線の一部に、蛇行線が混在している。このような蛇行線による波の表現は、例えば瑠璃寺本をはじめ、延暦寺本や法楽寺本といった鎌倉時代に制作された不動明王画像の背景にしばしば用いられる。また絵巻物では『華厳宗祖師絵伝』元暁絵巻2、義湘絵巻1、3や『北野天神縁起絵巻』巻4、5などにも認められ、鎌倉時代に登場する表現とも思われる。しかし、ここで問題となるのは、「十天形像」きないが、この蛇行線の波の表現は、鎌倉時代初期の新様とみても差し支えあるまい。
元のページ ../index.html#319