鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―22―「新ミュンヘン分離派」から離れていくように、四角い戸口ら歩み出ていることから、「両面作品」に含まれると考えられよう。なぜならそこには、裏表の意識が明確に確制作に励んだ。また、とりわけ1916年から17年にかけてベルリンのシュトゥルム画廊で開催された複数の展覧会において、次第に美術市場で成功を収め、画家としてのキャリアを形成していく。両面に描かれた年平均の作品数はベルンに亡命した晩年についで多い。もちろん単に経済的な危機から支持体の両面を利用したものも散見されるが、なかにはこの時期特有の傾向が見て取れる作品もある。1915年の線描画《大股で歩み出るひと》〔図6〕は、同年2月から3月にかけて開催された「新ミュンヘン分離派」展を擁護するビラを支持体にして描かれている。これは、同展覧会に対する批評家の誹謗中傷があまりに辛辣であったため、展覧会の主催者が配ったマニフェストのビラであった(注23)。ユルゲン・グレーゼマーが指摘するように(注24)、クレーはビラの文字が表側に透けて見えるように膠を擦りつけている。そのため支持体の紙は黄ばみ穴まであいてしまったのだ。「新ミュンヘン分離派」展に14点を出品していたクレーは、抽象的な作風のためとりわけ非難の標的であった。オットー・カール・ヴェルクマイスターは《大股で歩み出るひと》の描写を「愛国主義的なマニフェストに対するクレーの反論」と解釈している(注25)。原題に使われている「ausschreiten」には「大股で歩く」と「外へ出る(逸脱する)」という意味が掛けられていること、そして人物はちょうど、ビラのメッセージの最後の言葉、美術界でのクレーの身の処し方が表現されていると読み取れよう。つまり、愛国主義的な主催者からも抽象芸術を全く受入れようとしない批評家からも身を隔て、「この世では捉えられない」ところへ向かっていることが示されている(注26)。そこにはもはや黄ばんだ文字はなく、紙の地の色である白が光のように射しているとも見える。クレーはさらにこの作品のヴァリアントとして1923年にリトグラフを制作し、それに《脱退》という題名をつけていることからも(注27)、このモチーフに組織から離れていくというメッセージを反復して込めたことは間違いない。このように既存の印刷物を支持体として転用し、そのメッセージを表の絵に関連づけたものも、広い意味で認できるからである。またこの時期の紙作品の特徴として、1919年より開始した油彩転写画の下絵となる素描の裏面に、スケッチが描かれたものが多くあることを指摘しておこう。すでに別稿で詳述したように、これら裏面の素描は表のそれと形態や構図の上で密接に関連し合っており、画家が支持体の透ける性質を利用したのは明白である(注28)。油彩転写画は次の5の時期まで集中的に制作されるが、下絵素描の裏面にスケッチが残され

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