注大林院本に関する主な解説は次のとおりである。―312―金剛界が八十一尊曼荼羅であることに鑑みると、⑫もやはり天台系と考えられる。このように左向きの倶利伽羅龍は天台との関係が深いことが推測されることから、比叡山坂本の大林院本不動明王が左を向くのもあるいは天台の伝統を引き継いだものかもしれない。おわりに大林院本の表現や技法を検討した結果、本図の線描には、建長5年のボストン本の衣褶線に認められるのびのびとした抑揚ある線質はすでに影を潜め、その代わりに脆弱さが目立つ。線の太い細いというメリハリがなくなる点など、弘安頃のフリーア本や13世紀第4四半期ごろの恵光院本に類例が見出せた。さらに蕨手状の波頭を見ると、やや形式化がみられ、ボストン本に見られるような独立した波頭が動きに飛んだ生気ある表現とは一線を画するものがある。しかし正安元年の『一遍聖絵』のように枝分れした波頭が横に伸びる弱々しさは認められず、やはりフリーア本や恵光院本の、堅苦しいながらも比較的自由な表現に類例を認めることができた。このようにみてくると、本図の様式的位置付けは、鎌倉時代後期、すなわち13世紀第4四半期に置くのが、最も蓋然性が高いと考えられる。大林院本の不動明王が、長大な宝剣の、しかも剣身を握るという特異な図像をもつことは夙に知られており、高僧の感得にその因を求める図版解説類も多い。しかし不動明王が本来大日如来であり、また倶利伽羅龍でもあることに思いを致す時、本図の不動は、今し方までその四足でがっちりとsんでいた剣身から愈々降り立ち、降伏すべき敵を海上遥かに睨む頼もしい存在としてクローズアップされる。しかも肉髻珠を想起させる頭髪部の赤蓮華や、膝にも届こうかという長い両腕などは、拝する者に絶大な如来の力をも髣髴させるのである。表現・技法の検討から帰結される本図の制作年代に鑑みれば、例えば醍醐寺の信海筆不動図像の如く、未曾有の国難である元寇に備えるための本尊画像として制作されたと考えることも、あながち間違いではあるまい。①有賀祥隆「不動明王二童子像」『天台の秘寶・比叡山』講談社、1971年②濱田隆「不動明王二童子像」『日本古寺美術全集第10巻延暦寺・園城寺と西教寺』集英社、1980年
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