東アジアにおける釈迦誕生図像の変遷とその影響―316―――13〜16世紀を中心として――研 究 者:寝屋川市教育委員会 市史美術建築編主任調査員 松 田 妙 子はじめに本研究は、13〜16世紀の東アジアにおける悉達太子誕生の図像の歴史的変遷を探るものである。得られた知見は多岐にわたり、細部における検討は今後の課題である。紙数に限りもあり、ここでは、結論を中心に述べることとする。Ⅰ.中国の悉達太子誕生の図像の変遷中国の南北朝は、単独の釈迦誕生像は少ないが、石窟造像、碑像、単独像の光背裏面などに、太子誕生があらわされることは多い。隋唐では、『玉燭宝典』などから、南北朝に引き続き仏誕の行事が行われていたこと、『歴代名画記』からは、『仏本行集経』などに拠った仏伝図が描かれたことがわかる。しかし、作例については、敦煌莫高窟17窟発見の仏伝幡など、中唐以降のものが中心となる。再び中央での遺品をみるには五代を俟たねばならない。中国の太子誕生の図像については、南北朝の作例を参考に、隋唐の造像を想定したうえで、五代以降の図像の変遷を概観する。1.悉達太子誕生の場面構成について南北朝では、太子の誕生を、〈出胎/獅子吼/灌水〉の3場面にわける。この構成は、基本的には唐以降の作例にも継承されている。表1は、現在、図像を確認しているもののうち、北斉・北周以降の太子誕生と後述する弥勒誕生のうちの一部をまとめたものである。南北朝では、獅子吼よりも出胎と灌水が選択されることが多く、それに対し、中唐以降は、獅子吼も頻出するようになることがわかる(注1)〔図1〕。莫高窟17窟より発見された、9世紀以降の制作とみられる大英博物館及びニューデリー国立博物館が所蔵する仏伝幡(以下仏伝幡と省略)、五代の莫高窟61窟南壁・西壁や楡林窟36窟南壁の仏伝図、978年以前の制作と推定される、浙江省杭州市雷峰塔遺址銭俶愛育王塔(以下雷峰愛育王塔と省略)、太宗(976−997在位)の勅版大蔵経を底本として、11世紀に制作された高麗版大蔵経のうちの《御製仏賦》〔図2〕などの作例では、〈出胎/獅子吼/灌水〉の構成が基本となっている(注2)。ただし、獅子吼の太子の足下や周りには蓮華が描かれ、歩いている様子の太子もあり、七歩行と獅子
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