―317―吼を兼ねる〈七歩行+獅子吼〉であることが理解される。ところで、莫高窟では、中唐以降の弥勒経変に弥勒誕生の場面が描かれる。義浄訳の『仏説弥勒下生成仏経』の弥勒誕生の様子は、隋の闍那崛多訳『仏本行集経』などの太子誕生の記述を下敷きにしたとみられる。弥勒誕生の図像は、概ね〈出胎/七歩行+獅子吼/灌水〉の3場面で構成されるが、太子誕生の図像を考えるうえで参考となる〔図3〕〔表1〕。この構成は、すでに6世紀半ばから一部の遺品にみられる。莫高窟での状況も勘案すれば、中央では、中唐以前に定着した表現であったと推定される。次第に、獅子吼の場面が、出胎や灌水と同等に扱われるようになったことがわかる。次に、獅子吼と灌水を兼ねる〈獅子吼+灌水〉の作例についてみてみたい。南北朝の太子誕生の図像は、経典に忠実に獅子吼と灌水を区別する。灌水の太子は、単独の釈迦誕生像を含めて、両手を垂下した形である。中唐以降の制作とみられる莫高窟112窟西龕南壁東側弥勒経変下部〔図4〕には、弥勒誕生が描かれている。片手を挙手した太子が宣字座上に立ち、頭上には5龍、台座の周りに7蓮華が配されている。弥勒の作例でもあり、主流といえる図像ではないが、〈七歩行+獅子吼+灌水〉を意図した作例として興味深い(注3)。その後、北宋の莫高窟76窟東壁、西夏の楡林窟3窟東壁の仏伝図〔図5〕に、同様の太子がみられる。太子は片手を挙手して踏割蓮華上に立っており、その頭上に龍が描かれている。七歩行を兼ねた獅子吼の姿が、誕生の太子を象徴している。〈獅子吼+灌水〉の表現は、元の山西省興化寺中院腰殿(以下興化寺と省略)〔図6〕、明の青海省瞿曇寺隆国殿回廊(以下瞿曇寺と省略)、四川省覚苑寺大殿(以下覚苑寺と省略)などの仏伝図にあらわれる。また、明の景泰元年(1450)頃に編撰された『釈氏源流』は、釈迦の生涯を詳細に記したもので、多くの版画による挿図を掲載している。その太子誕生の挿図は、釈宝成編撰・成化22年(1486)内府刻本〔図7〕では、〈出胎/獅子吼+灌水〉である。巷間に流布し、版を重ねた本書に、正面を向いて片手を挙手し、蓮華座上に立つ太子に灌水するという挿図が採用されている意味は大きい(注4)。誕生の場面構成の変化に応じて、灌水の太子はその形が変わる。ごく大づかみではあるが、中唐では、南北朝以来の両手を垂下した太子が主流であり、北宋以降、七歩行と獅子吼を兼ねる太子へと移行し、明には、正面向きの獅子吼の太子になったと推定される。
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