―318―『修行本起経』などによれば、その人物は帝釈天や四天王であるべきだが、すでに南2.片手挙手型の釈迦誕生像について先述したように、南北朝の釈迦誕生像は両手垂下型である。唐代でも灌仏が行われていたことは『歳時広記』などの史料から確認できるが、どのような釈迦誕生像が本尊であったかは不明な点が多い。しかし、北宋の元豊元年(1078)以前の制作と推定される鎮江市博物館の銀製釈迦誕生像〔図8〕は、片手挙手型である。足を前後させており、〈七歩行+獅子吼〉の姿で、仏伝図に描かれる太子と一致する。像高1.7cmの小像であり、頭部背面に小孔があいていることから、灌仏の本尊とするには疑問もあるが、本像に灌水をするのであれば、〈七歩行+獅子吼+灌水〉の姿となる。史料のうえからは、北宋の陶穀撰『清異録』巻下張手羹家条に「q闔(しょうこう)門外通衢有食肆、供毎節則専賣一物…指天r餤四月八日」、金盈之撰『酔翁談録』巻四京城風俗記四月条に「…故用四月八日灌仏…迎擁一仏子外飾以金一手指天一手指地…」とみえる。前者は、四月八日に指天r餤と銘打った饅頭を売っていたこと、後者は、おそらく北宋のt京にある相国寺での灌仏の様子であろう。いずれも片手挙手型の釈迦誕生像が、本尊となっていたことを示唆している。また、先述の『釈氏源流』には太子誕生の場面とは別に、「浴仏形像」〔図9〕の項があり、灌仏盤内に片手挙手型の釈迦誕生像を安置する挿図がみられる。現実の灌仏を反映したものであろう。『釈氏源流』に拠るところが多いとされる、覚苑寺にも同様の場面が描かれている。実際、明の制作とみられる釈迦誕生像の数は、それ以前と比較すると多く、それらの像は片手挙手型である〔図10〕。中国における片手挙手型の釈迦誕生像の成立時期の問題については、考慮すべき点が残されている。しかし、太子誕生の構成が、〈出胎/獅子吼/灌水〉から〈出胎/獅子吼+灌水〉へと変化すれば、誕生の太子を象徴する姿が獅子吼になるのは自然なことである。中国で片手挙手型の釈迦誕生像が主流となるのは、このような環境が整う北宋以降ということになろう。3.世俗的表現について中国の悉達太子誕生の場面では、中唐以降に世俗的表現がみられるようになる。① 出胎の場面における俗人女性太子が右腋から出胎する時、素手や布を広げて太子を受け取る人物があらわされる。北朝には俗人女性が受け取っている遺品がある(注5)。これは仏伝幡や弥勒経変に
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