―319―みられる出胎のシーンでは主流といえ、その後の太子誕生の場面においても継承される。出胎については太子以外の登場人物を女性に限る遺品もあり、その背景には、現実の出産事情が反映しているとみられる。② 幼児化する太子南北朝の誕生の場面に登場する太子は、成人ないしは少年の体型が多い〔図1〕。大半は肉髻をあらわし、光背を負い、短裙を着ける。釈迦誕生像も、裸形とするものもあるが、肉髻があり、俗人と区別される。しかし、敦煌では、大英博物館の仏伝幡〔図11〕や弥勒経変〔図3〕にみられる誕生の太子や弥勒は、肉髻のない丸い大きな頭、ふっくらとした体つき、目鼻も顔の下寄りに集中しており、裸形である場合も多く、健康な乳幼児を想起させる。壁面に損傷があり確認しにくいが、この傾向は、五代の莫高窟61窟南壁・西壁や楡林窟36窟南壁の仏伝図の太子にも、認めてよいように思われる。その後に制作された雷峰愛育王塔、《御製仏賦》、金の大定7年(1167)制作の山西省巌山寺文殊殿西壁(以下巌山寺と省略)の仏伝図にも幼児化した太子はあらわれる。鎮江市博物館の釈迦誕生像もまるまるとした幼児の体つきをしている。唐代以降、時代、地域を越えて好まれた誕生の太子の姿なのであろう。③ 盤中で灌水を受ける太子『仏説太子瑞応本起経』などによれば、太子は灌水を受ける時、金机や宝机などの上に立つ。南北朝の遺品では、これを忠実に再現するものが多い。しかし、大英博物館の仏伝幡〔図11〕では、太子は盤風のものの中に立ち灌水を受けている。敦煌以外では、北宋の乾徳元年(963)の年紀がある河北省水浴寺石窟東区磨崖造像、《御製仏賦》、巌山寺、南宋の四川省大足宝頂山石窟(以下宝頂山石窟と省略)、元の興化寺、明の瞿曇寺、原図が成化19年(1483)制作の山西省崇善寺長廊(注6)、鹿児島県歴史資料センター黎明館の《釈迦八相図》(以下黎明館本と省略)などに、盤中での灌水がみられる。これらの作例は大きく二つに分けることができる。第一は、元や明の興化寺〔図6〕、瞿曇寺、崇善寺にみられるもので、幼児のような裸形の太子が盥風の盤中にあって、俗人女性の助けを借りながら、灌水を受けるというものである。この様子は、実際に幼児が水浴をするかのようであり、元の山西省永楽宮重陽殿東壁誕生図〔図12〕、同純陽殿東壁水浴図、明の山西省稷益廟正殿東壁育嬰図などとの共通性がある。生まれた子供に産湯をつかうのは当然であるが、中国では「洗児会」または「満月」という乳幼児の健やかな成長を願った儀礼がある。北宋の孟元老撰『東京夢華録』巻
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