―320―五や南宋の呉自牧撰『夢梁録』巻二十に記載があり、生まれて1ヶ月の後に、親戚や客人の前で、盥に香料を入れた湯を満たし、その中に果物や祝いの銭を入れる。赤ん坊を湯浴みさせた後、うぶ毛を剃るというものである。清のIvは『通俗編』巻九儀節において、洗児会が唐代より始まると考証しており、唐の大暦10年〔775〕の進士である王建は「妃子院中初降誕、内人争乞洗児銭」(宮詞一百首・其七一)と詠んでいる。北宋の蘇軾にも「洗児戯作」と題する詩があるので、洗児会は、宮中では中唐頃には始まり、宋代でも引き続き行われたとみられる。また、『東京夢華録』などの記述からは、それが、巷間に広く行われる行事となっていたことがわかる。盤中での灌水は、まず、実際の灌仏で、灌仏盤を使用することと関係があろう。これに加えて、幼児化した誕生の太子や弥勒が主流となること、女性の世話を受けながら、盥のような盤中で灌水をうける表現があらわれることには、現実の幼児にまつわる儀礼との関わりも想定してよいように思われる。第二は、北宋から明の《御製仏賦》、巌山寺、宝頂山石窟、黎明館本にみられる。裸形の太子が、盤中で、坐して灌水を受けるというもので、灌水の場面としては、最も変わったものといえる。五代南唐の南京棲霞寺舎利塔八相図の誕生の場面では、台座上ではあるが、太子は坐して灌水を受けており、この形の原形ともみられる。《御製仏賦》は、太宗御製であり、北宋の中央ではこの図像を選択したことになる。また、金の巌山寺は北宋中央の画題・画風を継承しているとされるが、灌水の場面が、《御製仏賦》と似ている点は興味深い。黎明館本〔図13〕は、明の制作と推定され、細部にわたり丁寧に描き込まれている。保存状態もよく、この図像を知るうえで最も参考となる。前述したが、明の実際の灌仏は、片手挙手型の釈迦誕生像を本尊とするのが一般的である。『釈氏源流』の挿図も、灌水の太子、灌仏の釈迦誕生像ともに、立って獅子吼する形である。しかし、黎明館本は、北宋の中央で選択されたとみられる図像を踏襲した。その制作背景を明らかにすることが、この図像の変遷を知るうえでの課題である。Ⅱ.日本の仏伝図との比較日本での悉達太子誕生の図像には、平安時代の遺品が少ないという問題がある。まず、日本の太子誕生の図像を概観し、その上で中国からの影響について考察する。飛鳥〜天平時代までの太子の誕生に関する遺品は、釈迦誕生像が中心である。その形は、肉髻をあらわした片手挙手型であり、〈獅子吼+灌水〉の姿である。着衣については、短裙から長裙へ変化するという特徴がある(注7)。
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