―321―平安時代については、史料からは、法成寺金堂の扉絵の《釈迦八相図》をはじめ、仏伝図が制作されたこと、灌仏会も引き続き行われていたことが確認できる。遺品としては、奈良県談山神社の《法華経宝塔金字曼荼羅》神力品に、出胎の場面が描かれており、両手を前に出して出胎する太子、布を広げて太子を受け取る侍女、摩耶を支える侍女などのモティーフが認められる。釈迦誕生像も、平安時代の制作と断定できるものは少ない。しかし、肉髻をあらわし、長裙を着ける、天平時代以来の姿をしている。鎌倉以降には、釈迦信仰の隆盛とともに、仏伝図の作例が増える。誕生の場面の構成は、〈出胎/獅子吼+灌水〉で、七歩行は蓮華だけであらわす。飛鳥時代以来、釈迦誕生像を片手挙手型につくり、灌仏を行ってきた日本では、仏伝図においても、〈獅子吼+灌水〉以外の選択はなかったのであろう。次に、中国からの影響についてだが、太子誕生の図像で、中唐以降に顕著になった変化のうち、日本が受容したのは、出胎の登場人物を女性に限るというものである。すでに、談山神社の《法華経宝塔金字曼荼羅》でも女性のみとなっているので、影響が及んだ時期が平安時代に遡る蓋然性は高い。肉髻のない子供の体型をした太子については、しばしば描かれるが、長裙ないしは膝下辺までの裙は着ける。太子は如来であることが意識されており、中国でみられる裸形の乳幼児としての表現は敬遠されたように思われる。なお、中国では九龍による灌水が一般的であるが、日本では二龍によるものが多い。鎌倉時代に制作された、広島県持光寺《釈迦八相図》〔図14、15〕にみられる誕生の場面は、出胎から灌水まで、太子以外はすべて女性である。出胎の太子は両手を前に出し、跪坐をして布を広げた侍女が太子を受け取ろうとしている。七歩行は蓮華のみであらわし、獅子吼する太子は、肉髻が明瞭で、二龍より灌水を受けている。保存状態が好く、この時期の日本の太子誕生の図像をよく伝える作例である。なお、太子は袴を着けており、聖徳太子二歳像との関連を考えるうえでも興味深い。鎌倉時代以降の釈迦誕生像についても、京都府大報恩寺の釈迦誕生像〔図16〕をはじめ、如来であることが前提となっている。円頂の像もあるが、多くは肉髻をあらわし、長裙ないしは膝辺までの裙を着ける。天平時代以来のこの姿は、その後、江戸時代まで継承される。同じ片手挙手型ではあるが、明の釈迦誕生像とは異なる様相を呈している。室町時代に制作された、京都府壬生寺の《釈迦八相図》〔図17〕は、この日中間の相違を認識したうえで描かれたとみられる。『釈氏源流』の挿図との共通性が認めら
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