―328―れ、さらに勾玉とも西欧のものとも見える装身具を身につけており、古代の支配者の像であることがほのめかされていた。肖像は楕円形の飾り模様で縁取られ、古代ローマかあるいは新古典主義様式の皇帝や英雄の肖像を思わせ、国家統一の象徴を生み出そうという西欧世界の要請を受け入れたものだった。縁取りには繰り返し「神功皇后」という名が刻まれていた。この明治14年の肖像画は、明治15年そして16年にもそれぞれ五円札および十円札に用いられた〔図2、3〕。これらの紙幣では、神功皇后の皇室における威厳が強調されている。特に16年のデザインでは、彼女の名前がより目立つように掲げられ、縁取り装飾に皇室を想起させる桐紋が織り込まれている。神功皇后の肖像画を取り入れた明治14年から16年の三種の紙幣は明治32年まで流通した。その成功ぶりを裏付けるように、これらの紙幣が「神功皇后札」と呼ばれ人気を博したことが読売新聞で何度も取り上げられている(注3)。キヨッソーネが描いた肖像画は、明治37年から38年におこった日露戦争の費用を捻出するために発行された公債の図柄にも採用されている(注4)。また、明治41年、当時印刷局の主任彫刻師だった大山助一(1858−1922)は、額面五円と十円の切手に神功皇后の肖像画を使用している〔図4〕。これらの高額切手は海外へ送られる郵便に用いられることを想定したものだった。切手の偽造を防ぐため、紙幣や公債のデザインと同様、肖像画が最適であるとの議論がなされた(後述)。切手史家である樋畑雪湖によれば、神功皇后のイメージを採択したのは紙幣の前例があったからであり、「交通史上でも意義があった」という(注5)。無論、ここでの「交通」が暗に意味するのは、三韓征伐に名高い軍事外交のことであるが、神功皇后の存在が幅広く外交一般を象徴している点が興味ぶかい。これらの切手の原版は大正12年(1923)9月の関東大震災で焼失するが、直ちに翌13年、再び神功皇后の肖像をあしらった五円・十円切手が新版で再発行され、さらに昭和12年(1937)にもすかし模様を取り入れた新しい用紙に印刷された(注6)。これらの切手は戦時中まで有効であったが、終戦後、神武皇后の姿は主要な消費物から消えていった。このような1880年代初頭から終戦までの神功皇后のイメージについて、以下のような疑問がわくだろう。新生した日本国家を代表する最初でかつ唯一の女性像として、なぜ神功皇后が公共の場に駆り出されたのだろうか?そして彼女の姿が、物語の中の登場人物としてではなく、イコン的な肖像画の形で描かれたのはなぜなのだろうか?新設された造幣局の局長となったイギリス人トマス・キンデル(?−1875−?)は、すでに明治5年の段階で、欧米のプロトタイプに倣い紙幣に明治天皇の像を使用するこ
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