鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―329―とを提案している。この案に対し、視覚的に天皇を表象することに対する伝統的な禁忌の念が主な反対意見として挙がり、これを踏まえ紙幣局長は明治10年2月17日付けの上申文で以下のように述べている。「彫刻の面で贋造予防上第一の要法は、写真彫刻に勝るものはなく、それ故外国の紙幣は、多くは国王の写真を彫込んである。よってこの際折角改造しても、第一の要法たる写真が欠けては、防贋の術も十分ではないので、雛形の表面右方にある楕円の中に写真を彫刻したいのであるが、適当なものがない」(下線筆者)(注7)。8年後、明治天皇は神武天皇を紙幣に用いるよう提案している。しかし宮中願問官の元田永孚(1818−1891)は天皇の祖先のイメージが万人の手に渡り汚されることになり、しかも紙幣価値は上下するので、天皇家も盛衰するかのような印象を与えかねないと反対した(注8)。この結果、明治以降、歴代の天皇は誰一人としてこの日常的に流通する消費メディアに顕れることはなかった。この点で、神功皇后は非常に都合のよい存在であった。神功皇后は、明治政府が発表した歴代天皇の公的な系譜に含まれておらず、明暦3年(1657)から明治39年(1906)にかけて編纂された『大日本史』の解釈に従い、摂政とされていた。したがって19世紀末には、神功皇后には天皇が持つ聖性が付与されておらず、昭和5年(1930)に紙幣デザインに採用された聖徳太子(574−622)と同様、西欧の帝国主義に対抗して日本国を表象する存在として理想的であったのだ。19世紀の神功皇后伝説とその視覚表象神功皇后の物語をふくむ八幡伝説の諸本の中でもっとも流布したのは、花園天皇の在位中(1308−1318)に成立した『八幡愚童訓』である(注9)。ここには、『日本書紀』に従いつつ「此后ト申ハ第十五代ノ帝王神功皇后」とあり、神功皇后は第15代天皇であると明記されている。さらに「後ニハ神明ト顕テ聖母大菩薩ト申キ」「神功皇后ハ阿弥陀如来ノ変化ニテ坐バ」と仏教的な位置づけも試みられている(注10)。この『八幡愚童訓』は、神功皇后の物語と、日本へ年一回の貢納を約束させた三韓征伐の成功に関するものである。彼女の誉れ高い武勇は、住吉明神といった日本古来の神々の助けや、胎内に宿った幼子のおかげでもたらされた怪力、さらに朝鮮半島の侵攻直前に起こる女から男へのジェンダー転変によってもたらされていた。神功皇后の変化は単なる異性装ではなく、「皇后、既敵国ニ向ハセ給フ。其御事ガラ勇々敷大将軍ト見ヘ給フ。御長九尺二寸、御歯ハ一寸五分ニ光アリ」とあるように、実は肉体的な変容を伴ったものであった(注11)。そして勝利をおさめ帰還した直後、神功皇

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